今やすっかり社会に定着した自粛というワードだが、字面を見てると
自虐に似てるなと感じ始めた。
一種のゲシュタルト崩壊のなせるワザかもしれないと思いながらも、本来全く意味が違うこの両者にどこかに共通点があるのではないだろうかいうことに興味が移っていった。
自分を卑下するという意味では自虐には良いイメージはないのだが、お笑いの分野では一種の定番のスタイルでもある。
人を貶めることは笑いになりやすいが、時事ネタなど実話をベースにするとリアリティの高さが逆に不快感を与えることも多いので、最近では他人のことをネタにするのはリスクが高いとも言えるし、言ってる自分の下品さだけが後に残るとも言えるようになった。
しかし、喋ってる本人が自分のことを自虐で貶める分には誰も傷つけないので、見たり聞いてる人も安心して笑えるというのが自虐ネタの良さと言える。
ネタとしての自虐の場合、対義語的な位置づけに自慢があるような気がする。
コロナの蔓延で自粛生活が始まるまでは、人々はリア充の競い合いをしていて、華やかな生活ぶりや高価な持ち物を写真でアピールしたりすることに余念がなかったし、そういう人はもてはやされていた。
そういう場では、自慢合戦が展開されていたのだ。
このように考えていると、そういえば最近世間から自慢が減ったような気がする。
自粛と自慢も対義語の関係にあるのかもしれない。
生活に自粛が浸透した結果、今自分の生活や持ち物を自慢気にひけらかす人がいたら、確かにカッコ悪い(≒アタマが悪い)人にしか見えないはずだ。
自粛をしてる人でも、本当は自粛なんかしたくない人は大勢いるはずだ。
テレビでは密な状況を作っている人々を非難するような体を装っておもしろおかしく取り上げてるが、そういう人々はおそらく全体から見ると圧倒的に少数派だ。
この現象は、日本だけではなく世界でも見られるので、人間は人種や民族を問わず空気を読むという能力を持っているのだとわかる。
今日から甲子園球場で高校野球が行われているが、本来だったら充実の極みにいるはずの甲子園球児にとって今野球ができることは、ほんのささやかな喜びに過ぎないはずだ。
甲子園に行けることは誇らしい自慢できることだったはずだが、今年甲子園で野球ができる球児は、野球が強いだけでは甲子園という舞台は成り立たないということを痛感してるはずだ。
自粛という生活スタイルが、人を押し退けてでも上に行きたいというモチベーションを奪っているような気がしてくる。