おもしろい話を読んだ。
ざっくりと要約すると、日本だけでなく世界中の文明や宗教が敬老意識の啓蒙に努めるのは、そうしないとあっという間に姥捨山だらけになるからという話。
以下は、人によっては不愉快に感じるような表現をわざとするので注意してください。
ネガティブな話が嫌いな人は読まないようにしてください。
長寿が当たり前になり、人生100年時代などと言われるようになった現代では姥捨山などなくなったと思われてるが、姥捨山はなくなったのだろうか?
現代の介護施設や老健施設に入るということは、思ったものとは違うかもしれないが姥捨山に思えないことはない。
文明や宗教が長い期間を通じて啓蒙したことに照らし合わせるならば、老親の面倒を見るのは子の役目であり、地域の老人の面倒を見るのは地域の役目だったはずであり、そんな地域の面倒を見るのが国の役目だったはず。
しかし、その面倒を一手に押し付けられているのは現代の奴隷だ。
親の面倒を見ることすら奴隷的になっている。
そして、奴隷の外注もシステムとして出来上がっている。
奴隷の外注は今や分野を問わないが、敬老に話を戻すと、お年寄りの面倒を見るのは社会貢献だと思う気持ちだけが拠り所で、仕事内容が楽しいわけでもなければ、ましてや儲かるなんてことはさらにあり得ない。
少し毛色の違う現場であるおれおれ詐欺の現場に新規参入する使いっ走りの新人にも啓蒙教育が行われる。
老人がお金を貯めてそれを世間に回さないからお前たちが苦しむんだ、そんな悪い金持ちの老人からお金を取り上げることは社会正義だと洗脳してるのだ。
内心ではヤバいと分かっていながら後戻りができなくなった奴隷も多いはずだ。
奴隷も姥捨山も正式には現代には存在してないことになってるが、実質に目を向けるとそれなりの形で存在してることに気付ける。
最近では、奴隷になるくらいだったら犯罪者になって刑務所で過ごす方がマシだと考える人が増えているという話すら聞こえてくる。
犯罪を犯して捕まらなければさらに儲けものだと思う人が増えてるとも聞く。
最近はさすがに陽が沈んだ後の空気に秋の気配が感じられることがあるが、日中はウンザリだ。
誰が悪いわけではないこの暑さへのウンザリ感は、考えようによっては罰を受けてるようなものなのかもしれない。
最近の奴隷ファッションは、マスクが大流行で、奴隷は束縛されるのが大好きなのかもしれない。
見慣れて当たり前に感じてることに疑問を持つと、とても醜い社会の姿が見えてくる。
そんな世の中を奴隷にならずに渡って行くためには気の持ちようだけが拠り所となる。
秋になって涼しくなると気分も変わって世の中が少しはマシに見えるようになるのだろうか?