数日前に大きな書店に行った際に、興味のあるなしに関係なく一通り全ての棚を見てまわった。(ただ歩いてタイトルだけを流し見ただけ)
適当に何冊かは手に取ってみた。
当たり前の話だが、手に取った全ての本は文字や写真やイラストを駆使して作られているということに気付いた。
一つの著作を複数の人で作ることは珍しいことではないが、少なくとも本の数だけ文章を書いた人がいるし、写真やイラストの数だけカメラマンやイラストレーターがいるのだ、プロを名乗ってるかどうかは別にしても。
これらは、新規に作られたものもあれば、過去の使い回しもあるだろう。
総トータルでは膨大な著作数であることが想像できるが、もしかするとそのエッセンスに目を向けると著作数ほどの広がりはないのかもしれないとも感じられた。
棚を一通り見ていて気付いたことがもう一つある。
それは、『教える』というジャンルに括られるものが圧倒的に多いということだ。
呼び名はさまざまで、参考書であったり、〇〇ガイドや〇〇案内だったり、広い意味で昔ながらの指南本というジャンルに括られるものが圧倒的なのだ。
新書や自己啓発や時事関連も全てここに含まれる。
純粋な著作である小説ですら内容の中には『教える』部分が多いと気付く。
知識としては充分知ってるはずのアメリカのゴールドラッシュの話。
一攫千金を夢見て砂金を掘ろうと集まった人々よりも、実際に儲かったのは砂金掘りの人々にツルハシを売った人々だったという内容。
ツルハシを売る人々は、本当かどうかは不明だが砂金の掘り方や砂金が採れる場所の情報を教えることでツルハシを売っていたという。
ただツルハシを並べてるだけで売れていたわけではなさそうだ。
広告代理店が、広告を請負うことのおまけとして企業分析などのコンサル情報を教えていることに似ている。
日本でコンサルビジネスが胡散臭いのは、売物の情報はお客の目にはおまけにしか見えないからだ。
教えるという行為は、残念ながら残念な評価しか受けないのだ。
ネットの世界も同様だし、増える詐欺事件もウソを教えることから始まると気付く。
『知りたい』という需要に対して、『教える』という供給が、手を替え品を替え繰り返し続けているのが人間の歴史だと見えてくる。
人類の歴史は戦争の歴史だと言われるが、これも『お前らは弱いんだぞ』ということを教えるために繰り返されていると思えてくる。
最近では、戦争の役目をスポーツが担っているとも言われている。
コロナ禍でのオリンピック開催を諦めきれない国や組織にとって、スポーツはスポーツではないのだろう。
教えるという意味では今朝何とも不思議なツイートが流れていた。
「安倍が24日に辞任、麻生が後継」
— 宋 文洲 (@sohbunshu) 2020年8月19日
なぜ台湾が知ってるの? pic.twitter.com/IO79znXhwm
信憑性が高いから報じられた情報というよりも、報じられたら勝手に信憑性が一人歩きするのだと言えそう。
コロナウイルスの登場で世の中は大きく変わったように感じられるが、その最前線では教えたがりが競われている。
コロナウイルスとはなんなのか?
ワクチンは?
さまざまな情報が飛び交っていて、果たして真実はどれだと右往左往する人が多いが、教えようとする人は全然別の目的を果たすために情報を発しているのだ。
本当かウソかは重要ではなく、もっともらしいことが重要なのだ。
修行が足りないわたしは耳許で『ねえねえこれ知ってる?』と囁かれると一瞬テンションが上がってしまう。
知りたがりな人で教えたがりな人は、いいねやリツイートをするが、そのような情報ほど拡散力を持っている。
知りたがりな人こそリテラシーを鍛えることが重要。