バドミントンの女子ダブルスで高松ペアとして活躍していた高橋礼華さんの引退を報じるテレビを見ていると、『まだまだやれそうなのに…。』と感じる。
そもそもプロのスポーツ選手で引退が話題になるということが実は極めて稀なのだ。
引退が報じられるということは、選手として知名度が高く成績や記録が優れているからだ。
引際の美学とは何だろうかと考えた。
誰の目から見ても現役で通用しないことは明らかなのにいつまでも引退しない選手がいる。
当然直近の成績は芳しいわけがないのだが、昔活躍していた時代があったおかげで知名度だけは抜群の選手がいる。
例えばプロ野球の松坂大輔。
本人自身が自分の引際をどのように考えているのだろうかという興味とともに、現役の継続が許容されるチーム事情等の背景にも興味がある。
知名度が低ければ、成績が期待できない選手はクビになる。
クビにならないということは、プロの場合客寄せパンダとして評価されているのだろう。
しかし、客寄せパンダとしての価値しかないようになっても、松坂大輔の場合はそもそも試合に出ないことの方が多かったので、客寄せパンダにすらなっていないのだ。
だとすると、マスコミでおもしろおかしく取り上げられるだけのチームの宣伝効果のためだけの存在かもしれないとも思える。
ちなみにわたしは松坂大輔が嫌いなのだが、それは好きになれる要素が全く無いからだ。
わたしが松坂大輔に感じるイライラをイチローが見事に表現したことがある。
プロ野球ファンの間では語り継がれているとも聞くが、2006年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の合宿でイチローと松坂大輔の間に次のようなやりとりがあったのだ。
『打たれてもなめてやってるだろ、わかるぞお前』『深いところでなめてやってるだろ』
こう言われた松坂大輔は、ニヤニヤしながら言い訳する様子が、いまだに野球ファンの間で語り草になっている。
バドミントンの高橋礼華さんに感じた引際の美学から松坂大輔に話がつながったのは、引際の美学を間違うと晩節を汚すことになるからだ。
松坂大輔と似たような存在にオリンピック界における森喜朗がいる。
いちいち名前は上げないが、政治やマスコミの世界でも引際の美学が無いが故に晩節を汚してる人が大勢いる。
辞書的には晩節とは晩年を意味するが、現代では年齢は関係なく、多様な意味でキャリアチェンジの際に生じるものだ。
美学と達観には通じるものがあるように感じる。
美学が無いということは、達観の反対を意味してるのかもしれない。
達観の反対にあるのは執着(≒諦めの悪さ)だと感じる。
引際の美学に限らず、美学を貫くことを邪魔するのは執着なのだ。
そういえばいつの頃からか自己啓発やSNSでは、成功したければ執着しろというようなことが盛んに言われてるような気がする。
執着することが、生き方から美学を奪い、晩節を汚させているように思えてしょうがない。