違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

突然消えたように感じられるものは時間をかけてゆっくり消えている!

交通機関の発達が、距離をkm単位でイメージするよりも、何分で行ける場所なのか、あるいは何時間あれば到着できるかという、時間を尺度にする方がイメージしやすくさせた。

 

交通機関の場合、物理的なサイズの制約は受けるが、身体プラス手荷物のレベルに関してはほとんど制約を受ける事はなくなった。

 

さらにインターネットの発達は、デジタル化できる情報に関しては時間や距離の束縛から完全に解放した、具体的には文字や映像だ。

 

 

場所の制約を受けなくなったことが加速させたのがグローバル化だ。

 

Made  in 〇〇が大した意味を持たなくなった背景には、実際に作っているのが人間ではなく機械になったことも大きいだろう。

 

 

ここまでは、時間の経過とともに出来なかったことが出来るようになった結果生じた変化。

 

この変化のプロセスでは、あったはずのものが無くなり消えていくということも起きていた。

 

このような消えていく変化は、自然と発生する需要減と関係するので、消えていく途中のプロセスに気付かないことも多い。

 

 

さて、これから起きる変化の中には、無くなって消えたものや受け継がれなかったテクノロジーの方が、合理性が高かったと思えるものが出てくるかもしれない。

 

それらは、アナログな存在であり、人の手を必要とするもののはずだ。

 

無くなって消えたものを望むようになった時には、受け継がれなかった技術をゼロから作らなければいけなくなる。

 

ピラミッドなどの古代遺跡にもそれが感じられる。

 

 

お金を払えば出来ていたことが、コロナのせいで出来ない不自由を強いられてるが、これは一時的に出来ないだけで消えて無くなったわけではない、今のところは。

 

コロナが蔓延したことで交通機関や宿泊関連が大ダメージを受けたことで、人間の物理的な移動が大ダメージを受けているが、インターネットを介したデジタル情報の移動に関してはほぼ無傷。

 

人間活動を中心にした場合、情報は自在に行き来できるのに、物理的に人間が行き来する事は当分自由ではなくなることがほぼ確実になった事で、このアンバランスがどんな影響をもたらすのかが気になるところだ。

 

広がる一方だった場所や空間に対する意識が、急に一部が閉じることを余儀なくされたことで何が起きるのかがこれから明らかになってくるはず。

 

想像されてるようなことと違うことが起きるかもしれない、それは想像すら出来なかったことになるかもしれない。

 

学校のあり方が一瞬にして大きく変わったことは、想像すら出来なかったことの一つと言えるだろう。

 

 

コロナと他の歴史上の疫病の違いは、医学のレベルや死者の数の違いなどよりも、生活やビジネスの背景にデジタルがあるかないかの違いだと感じる。

 

デジタルがない時代では、全ての行動が対面が原則で、そのために物理的な移動が必要で、そのために時間の制約を強く受けてきた。

 

デジタルを維持管理発展させるためにはテクノロジーの向上も必要だが、それ以上に必要なのが潤沢なエネルギーで、直接的には電気の比重が高いが、その電気をどうやって生み出してるかというと多様性があり、その多様性が仇となって地球環境は生き物にとって好ましくない方向に向かっている。

 

 

地球規模で見ると現在の人間活動の前提はグローバル化で、日本の場合エネルギーの自給自足ができないので、大事なことは常に世界の顔色を伺うことを余儀なくされている。

 

総理大臣が辞任したからと言って、日本国内のドメスティックな問題とでは済まないのだ。

 

万年与党と万年野党の違いの差はこの辺に現れるが、エネルギーを自給自足できない以上、ドメスティックな舵取りだけではたかが知れてるのだ。

 

誰が新総理に相応しいかを考える前に、エネルギーの自給自足について対策できないと日本の独立性は担保できないのだ。

 

同じことが日本で生きてる国民一人一人にも当てはまるはず。

 

もともと災害大国なので自給自足意識は高かったはずなのに、気が付いたらそういう意識は消えている。

 

しようにも、もはや出来なくなっているのだ。

 

 

歴史を振り返ると突然消えたように見えるものは、突然消えたわけではなく、時間をかけてゆっくり消えていったことが想像できる。