世界のコロナ対策と日本のコロナ対策の違いを見ていて、ずっとモヤモヤしていたことを整理していて気付いた話で、あくまでも自分の備忘録としての独り言。
最初にキーワードになったのは、海外でのロックダウンと日本の自粛の違い。
人の外出等の動きを法律で規制し、違反すれば犯罪者となるのがロックダウン。
人の外出等の動きを自主規制や要請で制限することは、あくまでも一人ひとりの自らの自由意思での選択に委ねることが自粛。
つまり、逮捕されるのが嫌だから、犯罪者になるのは嫌だから応じるのがロックダウンなのに対して、自粛は世間の目を意識した無言の同調圧力に応じること。
この違いは当初から指摘されていたが、この違いは補償の有無という観点で語られることが多く、わたしも無意識のうちにそっちに流されていた。
ロックダウンの場合は、応じた場合には補償があるが、自粛の場合は給付金等はあっても手続きや額を巡っての不満がとても大きいという違いで捉えられていた。
しかし、全然なんの関係もないのだが、最近は台風が過ぎ去った後でも暑いなと思っていると、昔は台風が過ぎ去った後には涼しくなって一気に秋が来てたなと思った時に、いつまでも暑いのがまるで罰でも受けているかのように感じて気付いたことがある。
犯罪を犯したり悪いことをして、その記憶や記録がいつまでも残ることを烙印が押されるという言い方をすることを思い出した。
烙印の由来は焼印だから、日本に限った話ではないのだが、すごく日本的なイメージがある、それは同時にキリスト教の懺悔を思い出したからだ。
キリスト教では、キリストに懺悔をして犯した罪を悔いると免罪される、もちろん法律的に犯した罪が消えるわけではなく、あくまでも心の問題としての話だが。
自粛に応じる日本人のメンタリティは、同調圧力と表現されるが、その背後には『烙印を押されたくない』という思いがあるように思えてくる。
一方で、押された烙印が懺悔で消えるとすれば、自粛は機能しなくて当然だ。
情報や記録がリセットされるかされないかが大きな違いを生むんだなと改めて感じられた。
いつまでも消えないデジタルデータが負の作用を及ぼす場合に、そのようなデータのことをデジタルタトゥーと呼ぶが、これも烙印の一種だ。
さらに、そう言えば男性と女性で記憶の仕方に違いがあることを、男のフォルダー保存に対して、女の上書き保存、と例えることも思い出された。
フォルダー保存とは烙印を押す(押される)ことに似ていて、上書き保存は懺悔に似ている。
この男女の記憶の違いは、いつまでも過去の記憶に囚われて女々しい男に対して、過去はきれいさっぱり忘れる女を思わせるが、女々しいとされる行為が極めて男らしい行為であるところもいかにも日本的な気がする。
このように考えると、日本で自粛に男性が応じることには不思議はないが、女性が応じてるということは、日本では女性の男性化(あくまでも表面的な行動として)が起きてるからとしか思えなくなる。
おそらく女性の社会進出の結果かなと思えてくる。
女性の社会進出が悪いなどと言いたいわけではなく、女性がいざ社会に進出すると、日本では男社会の仕組みに迎合せざるを得なかったのだろうということが今さらながら想像できるし、そんな行動が無意識や諦めに近かったとすれば、それこそが忖度だとも思えてくる。
さまざまなことがガラパゴスと揶揄される日本だが、鍵を握っているのは女性なのだろうと思えてくる。
そう考えると、日本の女性はフォルダー保存派が増えてると思えてくる。
女性がいつまでも覚えてること言えば恨み辛みが似合うところが怖い!