全然違う別々の話が結び付いた話。
羽生善治『人工知能の核心』を読んだ。
この本は羽生さんがNHKと共同でさまざまなAIに関連する取材を行い、将棋での対局を通じての話が書かれている。
つまり、羽生さんはAIに関して詳しいのだ。
そんな羽生さんはこの本の中で、人工知能に創造的な行為を託すということに関して次のような意見を述べていた。
ちなみに、私は最近のハリウッド映画などに顕著な、徹底的なマーケティングを重ねて制作された映画を観ると、『まるで人工知能みたいだな』という印象を受けることがあります。全てのプロセスが『計算』されてるように思えて、個人的にそういう作品は無機質に感じられ、あまり面白いとは思わなかったりします。
羽生善治さんが人工知能的だと感じてる例としてあげているのが、
『二時間以内に収めないと多くの観客が来ない』とか『何分かに一回は展開が変わらないと飽きてしまう』とか、そんなことばかりを突き詰めた先には、歴史に残る作品が生まれる気もしません。
この羽生善治さんの話とわたしの中で結び付いたのが次の話。
わたしには全然おもしろくない芸人のお笑いを一番笑うのは同時に出演している同業者の芸人たちである。かれらはおなじ笑いのプロのはずなのに、どうしてそんな程度のネタで笑えるのだろうと不思議だったが、お笑い芸人の世界は互助会だったのである。
これらの二つの話からキーワードになりそうな部分を抜き出すと、
- 人工知能的なものはマーケティング的である
- 日本のお笑い界は互助会である
この二つがわたしの中で結び付いて出来上がった仮説が、
- 人工知能的なマーケティングは互助会が支える
となった。
現在では、人間の営みのほとんどがマーケティング的であると言われるようになっている。
そこには市場原理があるとされる。
人間の営みの背後にある理屈や感情こそが市場原理の根底にあるとされ、市場をコントロールできるはずの政治でさえ、市場原理で動くようになっている。
マーケティングとはその時々の市場原理の代弁者なのだ。
つまり、日本では市場原理やマーケティングが機能する場では互助会が幅を利かせるのだ。
互助会というのは説明するのが難しいが、利害が関係する者同士の間で暗黙のうちに成立する空気のもとに集う集団、とでもなるのだろうか。
尊敬や信頼や好意で結びつくのではなく、得で結び付き、損で離れる関係性だ。
日本で起きている動きや流れの多くは互助会で説明がつくような気がする。
互助会の理屈は一見多数決に見えるが、実際にはヒエラルキーに従う構造。
ここ最近の政治で言うなら、総理交代に伴う一連の動きや流れも派閥という互助会の規模の大きさで出来上がったヒエラルキーから抜け出せない様がよく見える。
日本の互助会的なヒエラルキーの元でありがちな会話に、『俺があいつを食わせてやってる』や『俺はあの人のおかげで食えている』がある。
親会社と子会社や系列企業の間に成り立つ関係としては古典的であるとともに極めて日本的であり、どこか宗教的でもある。
これらのことばは、ボーッと聞いてると義理人情の結び付きに聞こえ、恩と感謝を忘れない美徳として語られがちだが、よく考えると陰質な束縛だと気付く。
儲けたかったらファンや信者を作れという話は多く、フォロワーの多い人をインフルエンサーと呼んで持ち上げたりするが、これもすべて互助会の別名だと思えば気持ちが覚めるだろう。
クールなはずの人工知能を想像していたが、人工知能は人間の行動を学習するようにプログラミングされていることを考えると、油断してるととんでもないものを生み出す可能性があることを忘れてはいけない。