同調圧力が機能するためには前提として空気が読めることがある。
同調圧力が機能した結果全員が同じ行動を取ったからと言って、全員が納得してるとは限らないし、時には全員が納得してないと思えることすらあるように思えることも珍しくない。
一般的には同調圧力は良くないことと捉えられるし、空気を読むことは自分に自信が持てないからと考えられがちだが、そのような価値判断はともかくとして、一定のレベルで存在してることは誰でも感じてるはずだ。
空気を読むことの読むに似てるのが察すること。
ことばに出さずに相手の気持ちに気付くことで、相手は人間の場合に用いるので対人関係というコミュニケーションで、これまた日本のガラパゴス文化。
日本には〇〇道というしきたりやマナーを重んじる文化が多いことが由来なのかなと思える。
もしそうならば、同じ文化圏に属してない者同士だと空気を読んだり察したりは成り立ちにくいはず。
昔だったらともかく現代では、前提となる文化や常識は人さまざまなので、空気を読んだり察したりに関しても読み違えや察し違えは日常茶飯事となる。
例えば音や声を巡って。
聞こえることが即不快になる場合も増えていて、キーボードを叩く音などは静かにすることがマナーとは言えない場ですら気になることが多いのは、音に関して空気を読めない人が増えてるからかもしれないが、空気を読めない理由の一つに自分の世界に没入し集中してるという場合がある。
集中してる場合というのは、周りから見ると周りへのが配慮が無いとしか見えない。
逆に考えると、空気を読んでる最中というのは、集中できてないか、あるいは集中すべきことがなく、気が散った状態だと言えるのかもしれない。
空気を読んだり、察したりを、ごく自然にできる人は、周りの人に『空気を読んでよ』『察してよ』と望みながら我慢することも多い。
結果的に、我慢の限界を越え爆発する怒りとともに不満や不快を口にするので、空気を読まない人にとってはいきなり喧嘩を売られたようになる。
言った人も自分の口調の強さに自分で驚くので少なからず自己嫌悪が生じる。
昨日、ちょっと自己嫌悪に陥ることがあった。
怒りに任せて暴言を吐いたのだ。
具体的なことには触れないが、しばらくして自己嫌悪に陥り、一日中気分が悪かった。
翌日の今日になって、免罪符を得るかのように自己分析をしながら一般論の体を装いながら書いている。