菅新総理が携帯電話料金を下げるために携帯各社への圧力を強めてることに対する東洋経済の記事を読んで、『そう言えばと』思い出した話がある。
きっかけとなった記事は以下。
日本人はドコモの高い携帯料金に甘んじている 小幡 績:慶應義塾大学大学院准教授
通信の品質以外のサービスにおいては、ドコモは間違いなく世界一のサービスであり、私に言わせれば、世界一の過剰なサービス、無駄なサービスを提供しているのである。
だが私は無駄だと思っても、スマホユーザーの大多数はそれを好み、あるいは他社に変えるほど悪くはないなどの消極的な理由から、それを選んでいる。結局、日本の携帯通信価格が高いのは「消費者が望んでいるから」という結論になるのである。
わたしが携帯電話を使い始めたのは1996年。
携帯電話の普及の推移を示すグラフを見ると、この頃から普及が進んでることが分かる。
グラフの引用は下記のサイトから
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本における携帯電話#収益構造の変化
携帯電話を持った理由は二つあり、一つは連絡手段として個人で持つことを当時の上司に要求されたため(会社経費にはしないが持てという圧力みたいなもの)、もう一つは通話エリアは首都圏の都市部だけになるが割安な携帯電話が出たから。
この当時の主流の携帯電話をバリバリ活用するのは経営者か金持ちだけで、わたしの知ってる方は月の電話代が10万円を切ることはないと言っていた。
参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/シティフォン
三大都市圏と甲信越の県庁所在地周辺以外は圏外
「ドコモの携帯が安く使える」以外の魅力がなく
割安な機種は、使用頻度が少なければ5000円以下で収まったという記憶があるが、強制的に持たされたのと、個人的には必要だとは思ってなかったので、無駄な出費を強いられてる苦痛があったことを覚えている。
さて、上記のグラフのようにその後急速に普及が拡大するのだが、その背景には中学生以上の学生が飛びついたということもある。
ビジネス上の『いつでもどこでも』だけでなく、個人的な『内緒で秘密』的な用途も顕在化させたのだ。
そうやって若年層にも携帯電話が普及し始めたが、お小遣いの中でのやり繰りが必要になるため通話よりもメールやショートメールなど料金を抑える使い方が定着するが、それでもお小遣いに占める携帯電話代が多くを占めるので、他の用途への出費が減ることに繋がった。
同じ理屈は、お小遣い制のビジネスパーソンにも当てはまったはずだ。
この結果、最初に言われ始めたのがCDが売れないとか本や雑誌が売れないということだった。
お小遣いを当て込んだビジネスが軒並み影響を受けていたという記憶がある。
最初は謎だと思われていたこの現象は、やがて携帯電話のせいだと分かり、そのことがビジネスにおける競争を変化させた。
従来は、ライバルは同じ土俵で戦う者であったので、同業者がライバルだった。
しかし、携帯電話の登場はライバルは同業者とは限らないという時代の幕開けになったのだ。
個人的なプライベートな関心は、携帯電話に集約される時代が始まったのだ。
そして、そんな携帯電話を優先する風潮に抗っても効果が出ないことも徐々に明らかになってきた。
そうすると、携帯電話を外部のライバルだと位置付けていた各種サービスが、携帯電話の中のサービスとして活路を見出すようになってきた。
日本だけでなく世界でも同じ傾向は見られたが、日本と世界では違う事情も見えてくる。
日本の場合、携帯電話の普及と日本のデフレが重なっていることが大きい。
総務省のホームページには平成という時代は、
- デフレの時代
- 通信費が伸びた
とあげている、他に女性活躍や非正規労働者の増加もあげられている。
「平成」は、どのような時代だったか? ~人口減少社会「元年」、非正規雇用、女性活躍、デフレ~ 総務省統計局長 千野 雅人
菅新総理が日本の携帯電話料金が高過ぎると言い始めた理由として、今後も日本のデフレ傾向は続くであろうことが政治的に明らかなんだろうなと勘繰っている。
『携帯電話料金を下げると国民が喜ぶと思っているのか、そんなことより経済の活性化を目指せ』と識者が声を上げるが、経済の活性化は目指したくても困難だから、多くの国民にとって変化が実感しやすい携帯電話料金が狙い撃ちされたのだと感じられる。
思えば、コロナで最もダメージを受けているのはこの数年でインバウンド需要や東京オリンピック需要を当て込んで巨額の設備投資などをした企業や人たちで、下手するとただの無駄遣いで終わる可能性すらある。
菅新総理の携帯電話料金の引き下げアピールは、これからの時代は厳しいから無駄遣いは絶対するなよ、ということを遠回しに伝えているのかなと思えてくる。