昨日のTwitterのトレンドに“普通の結婚”が入っていた。
出どころはこれかなと思えるのは、
ハリセン春菜 足立区議の「普通の結婚」発言に「普通、普通、普通って…普通って何?」 10/6(火)
春菜は「白石区議が、普通、普通、普通と言われてましたが、普通ってなんなの?」と疑問を呈し「普通と言われて、私は普通じゃないと感じてしまって心が傷ついてしまう方もたくさんいらっしゃる」
少子化を懸念することをLGBTと結び付けた発言に対しての世間の反応が、トレンド入りし話題になっていたらしい。
春菜さんが上手いこと言ってるなと感じた。
日本人のメンタリティは、この30年ほどで大きく変わったように見えるが、それは木に例えるなら枝葉の変化であって幹や根の変化ではないように個人的には感じられる。
普通ってなんなの?
日本人気質の根幹には、普通でいたい、望みは普通を手に入れ維持すること、というものが年齢問わず大きくあるような気がする。
共通してる『普通』の解釈を巡って多様性が生じてるとすれば、一つ一つの普通だと思っていることは、他人からは特別なものだったり特殊なものであり、場合によっては異質にすら見えてしまっても不思議はない。
このようなことを昨日感じていて、今日のブログは普通をテーマにしようかなと思っていて朝起きると、こんな記事が目に付いた。
https://mainichi.jp/articles/20201006/k00/00m/040/295000c
LGBTへの発言で炎上の足立区議白石氏(78)、謝罪拒否「当事者が不快と思っても別に良い」「だから何。(発言は)人によって受け取り方が違う。私だって共産党の意見を聞いても全部不快だ」
普通あるいは普通じゃないというのは多くの場合、差や違いが気になるか気にならないかによって生じてるような気がする。
差や違いがあるのに、そのことが気にならなければ普通として扱われるのだろうか?
『普通』っていうテーマは奥が深いぞと感じ、闇雲に検索する中で興味深い記事が目に付いた。
普通と普通じゃないの違い方の不思議と似てるものに、共通語と方言の使い分けがありそうなのだ。
「自閉症は津軽弁を話さない」この謎に挑んだ心理学者が痛感したこと
要点を掻い摘んで引用しようかと思ったが、どうも簡単にはできそうもないのでぜひ本文を読んでほしいが、基本的に方言を話さない自閉症の子供に関係してるのは、
「定型発達児が家族の真似もテレビ・映画のキャラクター真似も可能であるのに対して、自閉症児では家族の真似は困難だがテレビ・映画のキャラクターの真似は可能」という現象に着目しました。
ということらしく、そんな方言を話さない自閉症の方が方言を話すようになった場合は、
方言を使い始めた時期に同年代の他者への関心・興味が芽生え、対人的スキル等に伸びが見られたことがわかりました。
普通とはなんなのか?、を考えさせられる話だと思えてくる。
言語明瞭でありながら意味不明な“普通“。
普通という概念は、コミュニケーションから生まれてるとすれば、多様な人間関係が実際にはあることを考えると、無限の普通がありそうだと思える。
ついつい言いがちな『普通は・・・』は、十分な配慮がなければコミュニケーションを壊すことがあることを忘れてはいけない。