違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

日米のリーダーに感じる農耕民族と狩猟民族

政治家の力はことばの力だと言われる。

 

もちろん最終的には言ったことを実現する力が問われるが、

 

入り口やスタートでは常にことばの力が問われる。

 

つまり、折に触れてのスピーチや答弁が重要なはず。

 

そこで日米の新リーダーを比べてみた。

 

まずはアメリカのバイデンさんから。

 

おじいちゃんに任せて大丈夫かと言われながらも、内容も口調も力強いことが私の目には印象的で、悪くないんじゃないかと感じられる、あくまでもスピーチレベルの話ではだ。

 

 

 

 

こういう場合、部分を摘んで語るのは良くないと言われるので、全文に興味がある方は以下を参考に。

 

 

 

一切の前提を無にして聞くバイデンさんのスピーチは素晴らしいものに感じられた。

 

このスピーチにケチをつけるとすれば、なんらかの前提や先入観を介入させる必要があるはずだと思えてくる。

 

 

 

 

一方、日本の新総理の菅さんはというと、官房長官時代のあしらいの巧さからは想像できないくらい滑舌が悪く、抑揚もなく、論旨不明な答弁やスピーチを披露している。

 

 

菅首相ベトナムでASEANをアルゼンチンと誤読  2020年10月19日

首相は「目覚ましい発展を遂げてきたASEAN」と言うべきところで「アルゼンチン」と述べ、直後に正した。誰もが適切に医療を受けられる「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)」の意義を訴えるくだりでは、カバレッジを「カレッジ」と発言し、そのまま訂正しなかった。

 

 

 

 

内心ガッカリしてる人は多いはずなのに、

 

 

 

 

 

総理支持率推移

 

 

と、支持率は堅調に推移してるのだ。

 

 

この結果から想像できることは、

 

  • 調査が間違っている、もしくは偏っている

 

  • 日本人は首相の発言など気にしていない

 

 

と、なりそうだ。

 

調査が間違ったり、偏ったりすることは、報じるマスコミの側の問題でもあるが、そこに存在するであろう意図を推理し始めるとキリがなくなる。

 

首相の発言など気にしてなさそうな日本人が、支持する理由としてあげる理由で最も多いのが『他の内閣より良さそう』『人柄が良さそう』であることは、誰がやっても同じという諦めに似た思いも感じられそうだ。

 

ところで、日米の政治のリーダーのスピーチや答弁を見てると、日本では自分のことばで語っていないことが多いと気付く。

 

官僚やスピーチライターが原稿を作っているとしても、スピーチには個性が出てるようには感じられない、出てくる個性と言えそうなものは強いていえば喋り方だけだ。

 

だからこそ、滑舌や間や抑揚は大事なのだが……、おそらくそこはどうでも良いと感じてそうだ。

 

 

日米のリーダーの違いは、おそらく国民性の違いに由来するのかもと思うと、それって狩猟民族と農耕民族の違いかなと思えてきた。

 

日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族という言い方をすることが多いが、それが正しいかどうかは別にして、日本の場合、農耕民族ゆえに士農工商という身分制度が生まれたとすると、欧米の狩猟民族の人種問題と対比できるのかもしれないと感じる。

 

日本人には、お上に逆らってはいけないという意識がDNAレベルで染み付いているとすれば、誰がお殿様や総理大臣であろうととりあえず受け入れるのかもしれない。

 

そうなると、裸の王様に対して『王様は透明な服を着ています』と言うことに躊躇しないだろう、つまり忖度だ。

 

 

 

 

日本人は、農耕民族だから平和主義者が多いというが、本当は支配されることに甘んじる体質なだけかもしれない。

 

 

農耕民族と狩猟民族の大きな違いに生活スタイルがある。

 

農耕民族だって狩猟をすれば、狩猟民族だって作物を育てることはあるかもしれないので、きっちりとふたつに分かれるわけではないだろうが、農耕民族は定住が基本になり、狩猟民族は獲物を求めて移動する。

 

 

地震や津波や豪雨による水害などで家だけでなく地域全体がダメージを受けている様子を見ると、気の毒で気が遠くなるような気がするのは定住意識が強いからだろう。

 

 

日本人の価値観もずいぶん変わってきてるはずだが、意外と多いのが農耕民族的で定住意識の強さかもしれない。

 

 

このようなあまり自覚を伴わない深層意識に動かされているのが人間だ。