なんでも記録を取ることがログと呼ばれるようになったのは由来を遡ると航海日誌に行き着くらしいが、その理由はWikipediaによると以下のようなものらしい。
「丸太」を船の船首から海に流して、船尾まで流れる時間を砂時計や初期の機械式時計で計測し、船の速さを測ったことからその記録をログと呼ぶようになった。
ログの本来の意味は材木で、ログハウスのログなのだ。
一般人の日常会話に記録を取るという意味でログが浸透したのはPCの普及の結果だろう。
不調をメンテナンスする際に、データで過去に遡って何が起きていたかを知る手がかりにするためのものとして認知が進んだ。
ブログのログもこのログで、ウェブログの略。
スマホが普及し、時間の経過でスペックやアプリが充実してくると、従来だったらなんの役に立つのかと言われるような記録やデータの蓄積が、何かの役に立つだろうと考えられるようになり、なんでも記録を取ることが増えてきた。
〇〇ログと呼ばれるものが増えた所以だ。
壮大なログはビッグデータなどとも呼ばれてる。
文字や数字やグラフで、写真や動画や音声で、記録されるのがログだが、記録するということは、記録した時点では全て基本的には過去のものになる。
ビッグデータの中で最近よく見たり聞いたりするのは位置情報で、これは社会全体の役に立つために活用されている。
一方でログには、なんの役に立つのかと揶揄される過去の記録に過ぎないという側面もある。
しかし、不思議なことに未来に立ち向かうために役に立つのだ。
いや、役に立つというレベルを越えて価値があるのだ。
困難に直面すると、過去の困難の克服方法が参考になる場合があったりする。
起きてる出来事は全く違うのに、事に当たって人間が取り組む心構えや視点の据え方には共通点が多かったりする。
問題の解決法に共通点が多いということは、問題の発生原因にも共通点が多いということで、歴史は繰り返すと言われる所以だと感じられる。
目や耳に触れるログの多くは、社会のためであったり、システムの維持管理のためだったりするはずだが、最近では極めて個人的なデータや記録の蓄積にも価値を見出す動きが増えている。
わたしがおもしろいなと思ってるものに、タレントの武井壮さんがやっている体温の記録というものがある。
アスリートでもある武井壮さんは、自分のパフォーマンスをベストに保つために何が指標になるかを日夜研究していたらしい。
なんの役に立つかわからないデータや記録を積み重ねていき、その際のパフォーマンスがどうであったのかも合わせて記録していて、一定のデータが積み上がったときに、自身のパフォーマンスと体温が密接に関係してることに気付いたらしいのだ。
運動をする前、してる途中、終えた後、その他日常の中でことあるごとに体温を測っているらしい。
だから体温を測りましょうという話ではなく、武井壮さんにとっての体温は、自分にとっても体温なのだろうか?、それとも別の指標の方が当てはまるのかと考えると良いのだ。
ビジネスとして何かを始めようとするような場合は、商品やサービスがなんの役に立つのかを考えることから始まるが、そういう発想が限界を迎えているのだろう。
そういえば、今後は日本からはノーベル賞受賞者が出なくなるだろうと言われ始めた4年前の2016年ノーベル医学・生理学賞を受賞した大隅良典・東京工業大学栄誉教授(当時71)が『役に立つが社会をダメにする』と言ったことが思い出される。
日本では、企業や大学など組織体として機能してる世界には、役に立つかどうかわからないものに投資する余裕がないとするならば、その役目は個人が趣味として楽しみながら取り組むしかない。
個人レベルで、なんの役に立つのかわからないデータや記録などのログを取ることを楽しみながらやってると、とんでもない高みに行くことができるのかもしれない。
高みになど行けなかったとしても、趣味として長続するならばそれはそれで楽しい人生だ。
個人レベルでできるログというのは、映えるものではないかもしれないので他人からの評価はイマイチかもしれないが、自分自身にとっての没入感は高いだろうから、自己満足度はとても高いはず。
コロナ後には、そういう楽しみを持てる人の方が強いような気がする。
ちなみに、武井壮さんは健康管理に関しては本に書いてある一般的なデータよりも『自分のデータを取ることが大切』と言っている。
これを聞いて医者でもない人間のアドバイスなど興味ないという方は、相変わらず役に立つものを求めながら生きていくことになるのだろう。