違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

喉に刺さった魚の小骨!

ドラマ相棒の杉下右京の口癖に『小さなことが気になってしまう、ぼくの悪い癖』というのがある。

 

小さなことを気にする姿は、日常生活の中ではナイーブな反応だとバカにされがちだが、謎解きや発明や発見には役に立つことが多い、というよりも必須な反応だと言えるかもしれない。

 

小さなことが気になっているときに、思い出すことがある。

 

たぶん幼稚園頃のことだと思うが、夕食で食べた魚の小骨が喉に刺さったのだ。

 

大騒ぎするわたしに母は、牛乳を飲ませたり、ご飯を丸飲みさせたりさせたが、刺さった小骨は喉から取れてくれない。

 

結局、タクシーに乗せられて離れたところにある病院に行って小骨を取ってもらったことがある。

 

これ以来、何十年も経つ今でも魚を食べる時は、骨は取ってある調理でも、口の中でよく噛んで骨が無いのを確認してからでないと飲み込めないし、『あっ、骨があった』と思う場合の多くは、おそらく飲み込んでも平気な小さなものだったりするのは、トラウマの大きさを物語っているように感じるが、ある種の危機管理的な反応にも感じられる。

 

小さな揺れを感じると、次の瞬間に大きな揺れが襲ってくるかもしれないと身構える感じにも似ている。

 

 

 

実生活の場では、仕事であろうと遊びであろうと趣味であろうと、『なんか違うな』と感じることがある。

 

私にとっては、この『なんか違うな』は、喉に刺さった魚の小骨のようなものになることが多い。

 

たまには、無視してるといつの間にか無くなってることもあるけれど、取るまで不快感や違和感が残ることも多い。

 

この場合の取るは、なんらかの解決になる。

 

魚の小骨に相当するのが、原因や理由になるのだろう。

 

喉に刺さった状態というのが、起きてる現象であり、心に引っかかっている状態のはず。

 

 

これらは、魚の小骨のような物理的な存在ではなく、亡霊のようなものだろうが、間違いなく存在してるのだ。

 

 

心に刺さった、魚の小骨のような亡霊は、その正体を見極めることができれば勝手に消えていってくれる。

 

具体的なことは気が向いたらブログに書こうと思うが、つい最近、ずっと喉に刺さり続けていた魚の小骨のような心のモヤモヤに対して、明るい兆しを見つけることができたような気になれている。

 

いい歳になっても、このような気分を感じると青春を感じるのに似ていると気付ける。

 

 

まだ試行錯誤は続いているが、不快な引っかかりだったものが、意欲を感じるテーマに思えるようになってきた。

 

 

たぶん、他人の目から見ると、小骨が喉に刺さった状態も、それが解消された状態も、大して違いはないのだろうが。