ビジネス書を読んでいるとよく出てくることばに『根拠なんか無くても良いから自信を持て』というものがある。
たぶん同じ意味で使われることばに『小さなことで良いから成功体験を積み重ねろ』がある。
つまり、成功体験が自信につながるのだ。
逆に言うと、最初の成功を獲得する前は成功体験を持ってないことになる。
初めて成功を意識して立ち向かう場合には、自信が持てなくてもしょうがないのだ。
だからこそ根拠なき自信が必要になるのだが、現実的にはマーフィーの法則に振り回されることが多くなる。
「失敗する余地があるなら、失敗する」「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」をはじめとする、先達の経験から生じた数々のユーモラスでしかも哀愁に富む経験則をまとめたものである(それが事実かどうかは別)。多くはユーモアの類で笑えるものであるが、精神科医や学者の中には、認知バイアスのサンプルとして捉えることが可能なものも少数あるとの見方もある。
成功体験は、脳の報酬系に効くと言われる。
成功体験が無い場合に根拠のない自信を持つためには、強力な自己暗示で脳を刺激することが役に立ちそうだ。
ところで、この根拠なき自信や強力な自己暗示を覚まさせてしまうのは、家族や友人などの身近な人物の悪気のない一言だったりする。
だからこそ、成功体験を持たない人が大きな目標を描く場合、その手前の小さな成功体験を積み重ねるまでは、最終目標については誰にも打ち明けない方が良いだろう。
あるいは、打ち明ける相手は厳選する必要がある。
成功体験と目標は密接に関係していて、体験としては成功体験であっても、目標ではないことであれば、それが成功体験とは実感できないだろうし、なんの感慨もないかもしれない。
目標が持てることや設定できることは、一種のセンスであり才能と言えるかもしれない。
ところで、成功体験には大きく二種類が在るように感じる。
- 競争を勝ち抜いての成功
- 満足や納得を得られたという成功
の二つ。
別の表現をすると、
- 他人の目から見ての成功
- 自己満足としての成功
と言い換えられそう。
他人の目から見たら成功などではないが自分の中では成功と言えるものもあれば、他人の目から見れば十分成功だが自分では全然満足できない場合もある。
ストレス社会の現在では、自己満足としての成功が重要になる。
心が穏やかになれるからだ。
他人の目から見ての成功に応えることに重きを置くと、ストレスの虜になってしまう。
ストレスのアリ地獄だ。
少なくとも、この世に生を受けた人間は激烈な競走を勝ち抜いているのだ、残念ながらその記憶も自覚もないが。
一個の卵子を目指し争う精子の数は一般的には3億個と言われる。
この世に生を受けた人は誰でも億単位の競走を勝ち抜いているのだ。
実は近年の研究で、バラバラに競争してると思われていた精子が、5〜100匹で集合して(=協力して)いるらしいということが分かっている。
参考
競争に勝ち抜くために協力しあった精子も本当の意味での成功は1匹なのだろうが、協力しあったものすべての成功とも言えると考えると成功に対する考え方も変わってきそうだ。
やはり、最後は満足や納得に行き着くのだと思えてくる。
競争相手は敵だという普遍の考えがある一方で、競争相手であり仲間でもあるという関係性も成り立つことはある。
箇条書きで条件を連ねた上に成立する関係ではないだろう。
お互いの自己満足の上に成立した束の間の錯覚のようなものかもしれないが。
自信につながる成功体験とは、自己満足に他ならないような気がする。
じゃあ簡単なのかと言うと、人間は自分には嘘をつけないので、自分に正直になるしかなくなる。
これが簡単にできる人には簡単なことだが、多くの人が自分の心に嘘をつきながら生きているとしたら、自分に正直になることはとてつもなく難しいことになる。
成功体験を得たかったら、自分に正直になることが大事で、それができることが成功体験の第一歩になるはずだ。