人材として、なんでもできるゼネラリストと、専門分野に特化したスペシャリストの、どちらが良いかということは、しばしば話題になる。
ちなみにGoogleで検索するとわたしの環境では次のように出る。
多くの人は二者択一的にこのどちらかに分類されがちだし、しがちだが、実際には自分を含めてそのどちらでもない者がほとんどだと、残念ながら人生経験を積むと分かってくる。
今日は、人材について語りたいわけではなく、同じような視点がモノ選びにも当てはまりそうだという話。
悩み事や心配事が具体的な場合は、その一点が解決するものを求めるのは当然だ。
つまりスペシャリスト的なモノを求める。
体に出ている症状を抑えるための薬を選ぶような場合がイメージしやすいだろう。
しかし、今後の生活でそのような症状を出さないようにするための生活を知りたいと思うならば、スペシャリストよりもゼネラリストの見識の方が役に立つことは多い。
専門バカのスペシャリストも、専門性がまるでないゼネラリストも、一般的には似たり寄ったりの帯に短し襷に長しにしかならないのが現実なのではと思える。
モノ選びでも、万能を求めながらもコストの制約を受けて選ぶと、全てに中途半端なモノを手に入れてしまいがちだ。
要求が具体的で明確な場合に、それだけを基準に選ぶと、他の要望が出た場合には使い回しが効かないこともある。
逆にいうと、事前にきちんとした割り切りが出来ていれば、この場合の割り切りは心のありようになるが、要求の広がりは一定の範囲に留まるので、結果的にその範囲に関してのスペシャリストでありかつゼネラリストになれるような気がする。
現代は、要望すれば何でも出来るモノが手に入ると思われがちだが、そのことが、スペシャリストとゼネラリストが両立する範囲という割り切りの意識を奪っているように思える。
望むべくもないことを望む理由に、コストの制約の厳しさも影響してるはずだが、結果的に昔とは質的に違う安物買いの銭失いが起きているような気がする。
その昔、小売の頂点を極めたダイエーが衰退し始めた頃、『何でも売ってるけど、欲しいものだけが売ってない』と揶揄されていた。
その当時に比べると現代は洗練されてきてはいるが、大きな傾向としてはダイエー時代と変わりないような気がする。
コロナ後やwithコロナの生き方として、目覚めると良いのが割り切り意識ではと思える。
欲しいものはどこかに売ってるはずだという思いが、本当は必要な割り切り意識を奪っているが故に、モノ選びにおけるミスマッチが起きているのではと思える今日この頃。