応援したり、ファンの芸能人がいることを『〇〇推(お)し』と呼ぶことに違和感を感じなくなったが、自分が使うにはハードルが高過ぎるのは若者ことばだからだろう。
推しと言う言い方はいつ頃生まれたのだろうかと、GoogleTrendsを検索可能な2004年以降で見ると、
ピークは2011年の6月になっている、この頃何があったのだろうか?
Googleで検索すると次のように出る。
どうやらAKB48に関連してのことばであり言い回しらしい。
一般的に応援したり推薦することは推すというが、それが推しになると微妙にニュアンスが変化するように感じられる。
芸能界やアイドルの中で誰が好きかと問われた場合の答え方として『推しは〇〇』と使うのは多分ちょっと違っていて、正しいのは例えばAKB48のファンばかりが集まってる中で、メンバーの中で誰が一番好きと問われたような場合の答え方として広まったように感じられる。
大した違いじゃなそうだけど、実はこの違いは時代の空気に深く静かに影響を及ぼしている気がする。
そしてSNSと相性が良いはずだ。
Twitterですごく多数のいいねが付いたりリツイートがあるにも関わらず世論全体への影響力はさほどでもないという現象と通じてる気がするのだ。
例えば、政治に関して少し前のものだがこんなツイートがあった。
山本太郎の弱点は身内受けを意識しているところだと思う。
— 竜蔵@庶民を豊かにする経済論 (@ryuzou1200) 2020年7月8日
だから、活動のスタイルが「すでに山本太郎に賛同している人々」に向けてのものになりがち。
無党派層を狙いたいならそこは改めるべきだろう。
このツイートは推しを意味してると感じられる。
つまり、推しとは内輪受けとほとんど同じであり、推しをイベント化することでファンの囲い込みをしているのだ。
形式的には、広く外に向かって広がることを求めてるようで、意識が外に向かないように仕向けられているのでは、と思えてくる。
時代のキーワードとして価値観の多様化があがることが多いが、実際には一見多様化を志向してるようでありながら実際には画一的で狭い領域を志向してるのではと思えることが増えてるような気がする。
規模があまりにも違い過ぎるが、アメリカの大統領選挙に通じる話にも感じられる。
だとすると、日本的な反応というよりも、SNS的な今風の反応だと捉える方が相応しいかもしれない。
そして、さらに、この反応は考えた結果の反応というよりも、心理学や脳科学の研究対象になりそうな、気付いたらそう反応していた、という種類のものに思えてくる。
現代人は、自分で自分をコントロールしてるつもりになってるかもしれないが、実は自分の身の回りの空気感に遠隔コントロールされてるかもしれない。