違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

本当は知らないのに、知ってるつもりが起こす不幸があることを知る必要がある

人間は見えないものは気付かない、同様に知らないことは考えられない。

 

 

だからこそ、想像したり空想することには価値がある。

 

そうすることで、知らない世界に想いを馳せることができる。

 

 

知らないのは経験してないからということも多い。

 

 

 

見えないことや知らないことというと自分の外側の世界だと思い込んでしまうが、自分自身の内側も謎や未知に満ちている。

 

似たようなことは人間関係にも当てはまりそうだ。

 

内側の存在として身内やファミリーや仲間がいるのに対し、そうでない人は他人と位置付ける。

 

血のつながりが重要だというわけではないので、遠くの身内より近くの他人というケースも多いので、この場合は距離が大事となるのだろう。

 

 

ビジネスの場では、自社に有利になるように事態を展開したい場合、ライバルになる存在を仮想敵とみなす。

 

ライバルが社内の同僚という場合もある。

 

その場合は、同僚が仮想敵になるので、本来は身内であるがそれが敵になることも珍しくない。

 

逆のパターンもあるだろう。

 

敵や味方というのは、関係性や距離感だけでは判断しづらい面がある。

 

簡単には判断しにくいということは、知らないのと同じなのだが、往々にして判断しづらいことだとは感じてなくて、むしろ誰でもわかることだと感じて間違った判断をすることは誰にとっても珍しいことではない。

 

知らないということは、そういうことを生み出すのだ。

 

昔のドラマや映画では悪役専門という役者がいた。

 

今のようにSNSも無ければプライベートな生活を知ることもないので、昭和の視聴者は役柄だけがその人のイメージとして定着したものだ。

 

やがて、ドラマや映画では長く悪役だった役者に悪役以外の役を与えることが増えてきた。

 

このミスマッチは、物語にものすごく深みを与える効果があった、今風に言うならギャップの魅力とでもいうのだろうか。

 

このようなケースを経験することで、人間の本性はいい意味でも悪い意味でも簡単にはわからないものだと学習できるのだが、最近10年くらいで急速に過去がデジタルタトゥとして消えないものになりつつあり、一旦悪役の烙印を押されるとそれが拭えないものになってることが昭和以上なのかもしれない、と感じられる。

 

 

次の話は、自分の外側の話だと感じてる人が多いかもしれないが、ちょっとしたきっかけで内側の問題になるのだ。

 

 

「いつ死ぬの?」テラハ・木村花さんを誹謗中傷の男、なぜ逮捕されなかったか

直接対面する場合に比べると、匿名を隠れ蓑にすることで安易に誹謗中傷が行われやすいし、公然性の度合いも大きく、炎上しやすい。被害者が大量の「言葉のナイフ」を一身で抱え込み、今回のような深刻な結果を招く危険性も高い。

 

 

木村花さんのお母さんが次のツイートをリツイートしていた。

 

 

 

 

私たち一人一人は、満足してようが不満だろうと、与えられた役を生きているだけということができる。

 

どのようにも展開できる可能性があるはずだが、思ってる以上に過去や現在に縛られる。

 

そんな傾向は強まっているというつもりで対策を考える必要があるかもしれない。