年末に買った本だが結局正月三ヶ日が過ぎてから読み始めてる。
1996年(平成8年)に84歳で亡くなった岡本太郎が昔雑誌等で書いた話が集められている。
巻末には出典の紹介もあるので書かれた年代も分かる。
ブログのタイトルにした話は、1972年のもの。
その当時の成人について書いた話で、『老いない論ー爆発するいのち』のごく一部。
引用すると、
〜〜以下引用〜〜
「成人の日」というのがある。
20歳になった青年男女を集めて「成人式」が行われる。
これから人間として社会に出発するという儀礼だが、
私はいつも腹が立つ。
今日、20歳の青年なんて、すでにどうしようもないオトナではないか。
それぞれ自分の分際を心得て、ちゃっかり計算をたて、世の中に適応したポーズまで身につけた小市民。
一目でわかる。
(中略)
そういう連中を集めて、また型どおり、お役所のフォーマルな儀式。
あんなものに耐えられるということが、すでに青春を失い、ニブくなっている証拠だ。
だから、あれは「老人式」だ。
「成人の日」ではなく、この日こそ「老人の日」にしたらどうかと皮肉りたくなる。
〜〜引用ここまで〜〜
1972年にこの話が書かれたということは現在の70歳前後の方達の成人式の様子を見て感じたことなのだ。
最近の成人というのは、この人たちの孫世代に当たりそうだ。
儀式としてのフォーマルさこそ変化したかもしれないが、この半世紀の成人式を見事に表現してると思える。
岡本太郎がまだ生きていたら発狂してるかもしれない。
上記の引用の後には次のような表現もある。
〜〜以下引用〜〜
だれでも幼い日は純粋に、無目的に生きて、この人生に素肌でひたとむきあっている。
生きるなんてことを頭で考えなくとも、自然にふくれあがって、宇宙と合体している。
しかし、他を意識し、諸条件というものを知り、それに順応した瞬間から、それはまず小学校というシステムに入ったとたん、思い知らされるのだが、ほとんどの人間はシボンでしまう。
純粋な夢をかき消して、他から決められた基準の方にあわせ、オリてしまう。
その時点から老化が始まっているのだ。
本当の人間は老いない。
(中略)
そして青春が最もひらききった頂点において、生命つき、ドウと倒れる。
青春と肉体の破裂。
それが私の信念だ。
私の「老い論」、実は「青春論」だったようだ。
〜〜引用ここまで〜〜
2021年は密を避けるためということを大義名分にして中止や延期にされる成人式が多いようだが、それに対して『一生に一度の思い出が作れなくてかわいそう』という声が報道されているのを何度も聞かされた。
少子化はおそらく関係ないのだろう50年前からの傾向なのだから。
今の日本は、実際の年齢に関係なく老化が進んでいるのは明らかな気がするし、世間で起きる出来事を見ても老化に起因してると気付くと妙に納得できるような気がしてくる。
なんでも悪いことはお金のせいにすることが多いが、老化に関しては気持ちの問題なのだ。
岡本太郎はおもしろい!