緊急事態宣言が再度出されたことでテレワークやリモートワークが一層注目されることになる。
仕事やビジネスには、テレワークやリモートワークが向くものと向かないものがある。
コンピューターにはメンテナンスのために遠隔の操作を受け付けるような仕組みというかプログラムが搭載されている。
だから、起動できて通信が生きていれば、コンピューターに生じた不都合を遠隔で解消するための作業を行うことができる。
このような作業ができる人は、コンピューターやシステムに深い造詣が必要になる。
このような能力を身に付けた人の中には自分の実力を試したいという思いが、歪んだ形で現れることがある。
それが初期のハッカーであり、現在のクラッカー。
メンテナンスのための遠隔操作の仕組みを悪用して無断でコンピューターに侵入するのだ。
コンピューターの所有者や管理者の同意なく内部に侵入するためにはセキュリティの突破が必要になるが、それが実力試しになるし、ビジネスにすらなっている。
少し前置きが長くなったが、最近言われるテレワークは上記のパターンとはほど遠いのではと思えるという話をしてみたい。
コンピューターのメンテナンスであれ、悪意のある侵入にしろ、対象のコンピューターが現場になる。
本来は、人が行って初めて成立するのが現場だが、時代の変化で、人が移動しなくても情報の遣り取りだけで済む場合も増え、そのようなケースは電話やFAXの登場から始まっている。
インターネットのおかげで、届けられる情報は量と質の両面で大きく向上しただけでなく、ほぼすべての人が情報の双方向性を手に入れることができるようになったので、場所の制約を受けないという意味ではコミュニケーションのテレワーク化は可能にはなっていた。
それでもコロナ前はテレワークは大きく浸透はしなかったということは、人が移動することに意味があったからだろう。
移動するというよりも、直接対面で顔を合わせることに意味や価値があったのだ。
その場合、中心になるのは情報というよりもコミュニケーションといえるはずだ。
対面で会うことに価値が見出せると、会うことが目的化する。
昭和の仕事とはそういうものだった。
だから、会わなければ始まらないという思いがあるからだろうが、成果を上げることと成果を上げようとしてることの違いが曖昧になりがちだった。
時が流れ現代は、成果が大事になり、会うための理由が双方で共有される必要が出てきた。
片一方は成果をあげたいが、もう一方はただの暇つぶしというコミュニケーションはだんだん成立しなくなるかもしれない。
緊急事態宣言や自粛で槍玉に上げられるのが飲食店だが、利用者の目的は飲食以外にある場合も多く、そのような場合は複数で利用すればコミュニケーションだし、一人で利用する場合は一人になることが目的だったりすることが多いはずで、どちらにしても程度の差はあれどもコミュニケーションがテーマなのだ。
意識することは少ないが、コミュニケーションはことばを介して行われる。
時にはボディランゲージなんていうものもあるが、その場合だってことばが無いわけではない。
似たような現象に、文字やことば以上に写真や映像の比重が増しているということがあげられそうな気もしてくる。
写真家には視覚的なセンスだけが求められていると思い込みがちだけど、実際には写真が形成するイメージはコミュニケーションのいち手段なのであって、だから本当に重要なのはドキュメンテーション力のはずなんだけれど、写真が自己表現に使われるようになってからは、それがあまり重要視されなくなった
— トモ コスガ (@tomo_kosuga) 2021年1月7日
営業時間の短縮に応じない飲食店も、そんな店に行く客も、報道だけ見てると反体制派に思えるが、違う見方をすると、昔ながらの対面でのコミュニケーションを諦めきれない人達だと見えてくるのだ。
しかし、ここに来て昔ながらのコミュニケーションに頑なに拘っているのが自民党議員だと明らかになった。
日本医師会の中川俊男会長は国会議員の夜の会食の全面自粛を訴え「国会議員に範をいただきたい。『まず隗より始めよ』です。そのような行動が国民の緩みの解消につながる。4人以下の会食なら感染しないと思うなら間違いです」と強調した。#新型コロナ #会食ルール https://t.co/f4Nb6pveLX
— 東京新聞編集局 (@tokyonewsroom) 2021年1月6日
おそらくオリンピックもみんなで対面でワイワイやるコミュニケーションイベントだと思っているのかもしれない。
【森会長 五輪に不安ありません】https://t.co/AOynKscUL8
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) 2021年1月7日
東京五輪組織委の森喜朗会長は、新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言の再発令が決まった7日、東京五輪の開催の可否について「不安? 全くありません」と語った。「今、オリンピックの準備は、ほとんど全部できている」。
このように考えると、コロナはただのキッカケに過ぎず、実際に起きてることはコミュニケーションを巡る葛藤であり争いだと思える。
1年前までは無いか、あったとしても潜在的だったものが、ハッキリと顕在化してきたのだ。
コミュニケーションという分野に新しい尺度が誕生したとするならば、頑なに対面でのコミュニケーションに拘る人が喫煙者と同じ扱いになるのもそう遠い話ではないかもしれない。