Wikipediaによると情報化社会と言われるようになり始めた起源は1960年代らしい。
つい最近の傾向のようでもあり、意外と歴史があるなとも感じられる。
今生きてる人の場合、持ってる情報の差はとてつもなく大きいかもしれないが、それぞれの人が入手する情報の入手経路の80%以上は目から入っていると言われている。
つまり、目はとても疲れている可能性が高いのだ。
わたしは母からの遺伝のせいだろうが小学校6年くらいから急速に視力が落ち始めた。
その頃は、メガネをかけることはとてもカッコ悪いことだったので抵抗していたが、中学入学でメガネを購入して授業中だけかけるようになった。
最初は、クラスに1人2人だったメガネをかけた生徒は、気がついたら増えていた。
その頃は、視力を悪くする要素は、本を目の近くで読むこと(暗いところで読むから)と、テレビを近くで見ることが原因だと言われていた。
それから数十年、現在ではメガネを必要とする人の方が多いくらいなのかもしれない。
情報化社会と相俟って、目はきっとさぞかし酷使されているのは間違いないだろう。
わたしが視力が悪くなり始めた頃は、10代の少年少女にとってラジオというのはとても身近で重要な情報源だった。
インターネットなどない時代であり、テレビは一家に一台で自分の自由に見れなかった時代の若者の情報は耳からも多く入っていたのだ。
しかし、ラジオは徐々に存在感が薄くなって行き、その裏でテレビが一人に一台の時代に移っていった。
それが当たり前になった時に突然現れたコロナのせいで再びラジオが一部で注目を浴びるようになっていた。
ラジオ復権切り札にradiko、在宅勤務増え人気
— 日刊スポーツ (@nikkansports) 2021年1月10日
<#ニュースの教科書> #radikohttps://t.co/tjvEBfq5nr
あるラジオ局関係者は、……
「一般的に、目はかなり酷使されていますが耳にはまだ空きがあり、可能性があると思っています」
と話しています。
ながらで作業する場合、複数のことに目を奪われるとながらは成立しない。
よくマルチタスク能力が必要というが、一つの感覚器官に複数の異なることを処理させることはかなり困難なのだ。
しかし、目と耳から別々の情報が入る場合、情報量が多すぎなければ同時に処理できても不思議はないことは経験として皆持っているだろう。
21世紀に入ってからは、最初はデジカメの普及と高性能化のせいで、その後はスマホの普及と搭載カメラの高性能化で写真や動画に夢中になる人が増えたことは、さらに目の酷使に拍車をかけているようにも感じられる。
このように考えていたら、ふと思い出したのが、疲れた目をリラックスさせるために遠くの緑を見ろというのがあったなということだった。
最初にこの話を聞いた頃の緑とは、木や森や山の緑のことで、単なる緑ではなかったような気がしてる。
おそらくこれは経験から生まれたことが伝えられたのだろうが、色には三原色(赤、青、緑)があり、それらは均等に分布してるはずなのに、なぜことさらに緑が強調されたのだろうかと思って少し調べたら、人間の目の特性として三原色の中の特に緑に対する反応が強いらしいのだ。
これはカメラのセンサーを作る際にも応用されていて、ごく一部を除いて緑のセンサーは赤や青のセンサーの2倍が割り当てられているのだ。
こうすることで見た目の色に近づけるようにしてるのだ。
このように考えた時、写真や動画を見るだけだったら目を酷使することにつながってるかもしれないが、撮影する場合、それが屋外ならば、自然と遠くの緑を見てるのと同じ効果を目に与えているのかもしれないと思えたのだ。
何かを撮ろうと思い周りを見渡す作業は、モニター越しに何かを見たり本を読むことと違い、意識を集中していても目はリラックスできるのではないだろうかと思えてくる。
もし、本当にそうならば外で写真を撮るという行為は、それが風景ならば、目には優しい行為になる。
三連休の二日は天気が悪かったが、幸い今日は気持ちよく晴れている(天気予報は良くないので束の間かもしれないが)ので、風景写真でも撮りにこれから出かけたい。