何かを判断する時には、正しいか正しくないかを基準にしたくなる。
わたしの場合の話だ。
正しければ、失敗しないと思いたくなる。
しかし、そう思いながらもかなりの場合に、好きか嫌いかという基準の介入が避けられない。
すごく良さそうな情報であっても、伝えてきた人を好きになれそうにない場合は敬遠することが多い。
自分でも、もったいないことしてるなと思うことがあるが、そういう性分だからしょうがない。
条件を箇条書きにして優先順位を付けて選択して判断することには合理性があるように感じられるので、ビジネスの場ではこういうやり方が多いのは当然だが、そういう方法でいろいろなことが進んでいくことをおもしろくないなと感じてる人も多いはずだ。
合理性とは、最良の選択や判断をしているはずだと思えるから成り立つのだが、それは失敗した場合にもっとも通りやすい言い訳を前もって準備してることでもあるように感じられる。
日本では、政治や大企業は一般には失敗の責任を取らないことが多い。
失敗であったことを認めることすら少ない。
具体的な例は多数あるが最近だったらコロナを巡ることでも思い当たることは一つや二つではないだろう。
こういう時に、責任を取らない場合は、聞いていて納得できない、ああまたかと思えるような言い訳がつきものだ。
一方で、合理性というよりは好き嫌いに基づいて行動して失敗した場合には、潔く謝罪することが多いように感じられるし、そのような場合には判断に非があったことを素直に認めることが多い。
それは自分の行動の全てに、失敗はあったが嘘はなかったから、だと思える。
このように思い当たると、合理的に判断して失敗した場合に謝罪はしても責任は取らない場合は、やはり自分に嘘をついていたからなんだろうなとなりそうだ。
日本の政治に付き纏う合理性は、利害の損得に対する大義名分が支える。
政治家には、政治に関わって得をしようと寄って来る人しか見えない。
寄ってくる人々もギブアンドテイクで政治家に得を与える必要がある、それは選挙における一人一票プラスαに他ならないはずだ。
政治に限らず、会社の経営や組織の運営など政治性が介入することにはこの傾向が強いはずだ、日本では。
このような枠から全く離れて自由でいることはなかなか難しいが、もしできるとすればプライベートな生活になる。
プライベートな面では、合理性よりも好き嫌いを重視することで心が開放されるかもしれない。
好き嫌いによく似た基準には、合う合わないというものもある。
心のどこかで、嫌いだし合わないと感じることや人は、避けて生きた方が心には優しいはずだ。
嫌いや合わないという気持ちに蓋をするのが、往々にして合理性だったりするから要注意だ。
赤信号みんなで渡れば怖くない、というのは一つの真実だが、自分の心を偽る場合の言い訳にもなることをお忘れなく。