違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

この世は予想と予測で成り立っている

野球を例にあげると、ピッチャーはバッターに打たれないように予測しながらボールを投げる。

 

あるいは打たれたとしても、ヒットにはならないように予測しながら投げる。

 

逆に考えると、バッターの実力や狙いを予想し予測してるのだ。

 

 

一方、バッターはピッチャーがどんなボールを投げてくるかを予測しながら待ち構える。

 

気持ちの上では、どんなボールが投げられても打ってやろうと意気込んでるかもしれないが、実際に打てるのは打ちやすい球が投げられた場合がほとんどになる。

 

ピッチャーが投げ損じをするように、バッターにも打ち損じがあるが、最も高度なプレーが展開されるプロ野球の世界では、バッターの打率が3割だとバッターの勝ちだと考えられる。

 

では、初めて野球をする場合はというと、ピッチャーにとって最も重要なことはバッターを打ち取ることよりも、ストライクが投げれることになる、そうでなければゲームが成立しないからだ。

 

バッターはバッターで、ただバットを振るという行為が簡単ではないことに直面するだろう。

 

ピッチャーもバッターもいろいろなことを考えているだろうが、その大部分は実力が付いてくるほどに、予想や予測が多くを占めるようになる。

 

それは経験を踏まえての意識的な備えとして始まり、練習や実践の繰り返しで無意識のレベルまで高まるし、レベルが上がると独自の勘も冴えるようになるだろう。

 

この場合の勘とは、当てずっぽうではない高度な予想や予測で、当人ですら理由は説明できないかもしれない。

 

スポーツは予想や予測で成り立っているのだ。

 

 

レスリングのように組み合って勝負する場合、相手の動きは見えてない場合があるだろうが、組み合ってる際の相手の微妙な力加減の変化で相手の状態や狙いが予想予測ができてるはずだ。

 

 

しかしながら日本では、このような予想や予測に基づく競争や争いは、気合や根性だとすり替えられる。

 

 

 

この理屈は、人間活動のほぼ全てに当てはまってもおかしくない気がする。

 

予想や予測と考えると、予知や予言をイメージする場合もあるだろうが、大きなことをド〜ンと言い切ってしまうような予知や予言とは違い、短時間に状況に応じて小刻みに修正が繰り返されるようなものをイメージしてほしい。

 

予想や予測とは、危機管理でもあるので、対処法は常に複数の想定が成り立つ。

 

最もオーソドックスなプランAに対して、機を見てのプランBやプランCなどだ。

 

 

 

予想や予測に基づいて行動してるつもりがないことでも、実は予想や予測に基づいてることがほぼ全てかもしれない。

 

予定を立てて行動することを予想や予測だとは誰も思わないだろうが、突然大地震があれば、いきなり事故や事件に巻き込まれれば、予定なんて気にしてる場合ではなくなる。

 

ほぼ同じような情報を持っていても、その情報に基づいて取る行動は人によって大きく違うことを私たちは経験で知っている、予想や予測が違っているからだ。

 

予想や予測の違いの前に、知識や経験や思考の違いがあるものだ。

 

人の数だけ人生があるのは、人の数だけ予想や予測が存在してるからだ。

 

予想や予測をする場合、そこには心が介入する余地が生まれる。

 

心が介入すると、予想や予測は、ポジティブかネガティブかという尺度が適用される傾向にあるが、もし危機管理的であることが求められるならばネガティブである方が正しいはずだ。

 

コロナ禍で、予想や予測が大きく狂った人が大勢いるだろう。

 

一般人であろうと、大企業の経営者であろうと、政治家であろうと。

 

 

コロナ後は、コロナ前に戻ることはない、と言われることが多い。

 

これも予想や予測だ。

 

では、どんな未来を予想予測してるかというと、コロナ前には戻れないと強く言い切るほど明確に示すことができ、且つなるほどと思える意見や考えの持ち主はいないように見える。

 

どうなるかが本当にわからない場合の予想や予測は、どこかの誰かが言ったようなことを真似することが多い。

 

このようなことを考えていると、歴史は繰り返すということばの意味がわかるし、さらにいうと、鴨長明が方丈記の冒頭に記したことばが沁みる。

 

 

ゆく河の流れは絶えずして、

 

しかももとの水にあらず

 

 

よどみに浮かぶうたかたは、

 

かつ消えかつ結びて、

 

久しくとどまりたるためしなし