昨日、自転車のタイヤを交換した、すり減っていたからだ。
もともとは少し太めのタイヤが装着されていたが、走りに軽快感を求めて少し細めのタイヤに付け替えていたが、思うところがあって最初についていたタイヤよりワンサイズ太めに付け替えた。
急に生じた気持ちの変化というよりも、2〜3年かけて変化したのだ。
交換はしたが、雨が降っているのでまだ乗り味の違いは確認できてないが、自転車の見た目の印象は大きく変化した(他の人から見たら気付かない程度の変化だろうが)ことで感じられた充足感に不思議な気がしている。
たかがこの程度のことがなぜこんなにワクワクするのだろうかと考えてみた。
一般的に飽きるといわれる心理に、新しい刺激を与えられたからだと思うが、もう少し掘り下げてみた。
辞書的には、飽きるということは、もう十分でいやになる、と定義されている。
検索して、飽きるということに対する世間の声を拾ってみると、それは自分が成長してるからだと考える声が多いことにも気付く。
辞書的な、もう十分でいやになるという状態は、現実的には慣れによる新鮮味の減少ともいえそうだし、自動車や電化製品や機械や装置ならば徐々に進行する経年による劣化に起因してるかもしれない。
他にも、効いていた薬が使い続けてるうちに効かなくなるような場合もあるが、これは耐性が付くからで飽きたからではないのだが、体が飽きているのだろうと感じる人もいるかもしれない。
飽きたり、経年劣化だったり、耐性だったり、原因は様々だが、これらは発生することを前もって予測し、それに備えたプランBやプランCを準備できていなければ、なんだか訳のわからない隙間風が心の中を吹き抜けているように感じるだろう。
気付いた時には、それなりの大きさに広がっているのが隙間だが、いきなり広がるわけではなく、徐々に進行した後で気付く瞬間が唐突に訪れるだけかもしれない。
いずれにしても、隙間風を感じると、不満や不安や心配に苛まれるようになる。
隙間風に振り回されるのは当事者本人だけで、周りにいる人からするとどうでもいいことにしか思えないものだ。
煩悩の99%は、所詮この程度のものだろう。