日本で、学力評価の指標として、偏差値が編み出された最初は1957年らしい。
偏差値が一般化したのは高校や大学の入試模擬試験の評価に導入されてからで、1970年代に入ってからとされる。
ざっくりと現在70歳以下の進学を意識した経験のある方であれば、自身が偏差値で評価された経験を持つと言えそうだし、1970年代に教師など教える側の立場だった方や子を持つ親で教育熱心だった方まで含めると、現在存命中のかなりの方が尺度としての偏差値に一喜一憂したりさせられたりしたはずだ。
偏差値をおさらいすると、大人数(最低でも数万人以上)を集めてあるテーマで分類すると正規分布を構成すると考えられ、その分布のどこに位置するかを示すのが偏差値。
成績の評価の場合だと高い方が良く、低いことは悪いとされるので、偏差値への一喜一憂が起きやすくなるが、あくまでも瞬間値に過ぎない。
テーマが成績ではなく、身長や体重の分布であれば、別に偏差値で示されたからといって心が乱れることは少ないはずだ。
成績の場合に偏差値の高さに振り回されるのは、偏差値が高いほどレア度が高く優秀で貴重だと評価されるからだが、数学的な意味合いとしては偏った少数派を意味してるに過ぎない。
高い偏差値を持つ者は指導者に相応しいと思われがちだが、世の中には多数決で決定されることが相応しい場合も多いので、高い偏差値を持つ少数派とそれ以外の多数派では基本的な価値観が一致してないこともありそうという意味では指導者には相応しくなさそうでもある。
受験に関して日本で偏差値が最高とされるのが東大理3(医学部)。
そんな理3出身でかつ理3の教授も務めた養老孟司先生は偏差値に否定的で、偏差値が高いことは血糖値や血圧が高いことと同じだと言っている。
さらに面白い発言として、そんな理3で人生の多くを過ごした自分が、トップクラスの偏差値エリートと長年関わり続けても、かろうじてまともでいられたのは、解剖学をやっていたからで、つまり相手にしていたものの中心が死体だったからで、死体には欲もないし、嘘もつかない、からと言っている。
世間で、偏差値エリートが持て囃される傾向が強いのは受験や勉強だけではない。
スポーツの世界などはもっと顕著だ。
チームスポーツと個人スポーツでは評価のされ方が同じとはいえないが共通点は多い。
新記録や世界記録の更新、すなわち偏差値の更新に近いだろう、こそが最大の評価を得る手段という意味では、冷静に考えるととても歪な世界に思えてくる。
ランニング競技におけるシューズの競い合いを見てると、冷めた目で見ると滑稽ですらある。
勉強であろうとスポーツであろうと、高い偏差値に夢中になると何故か疑問を感じなくなるのが前提となるルール。
競争の激化は、当初のルールが想定していた範囲を越えることも起こす。
オリンピックを始め、スポーツのルールの世界のトップにも様々な偏差値エリートが君臨している。
ルールは、もっと広義に法律と置き換えても成り立つだろう。
そこには法律に関する偏差値エリートと法律によって利害が生じるビジネスの偏差値エリートの闘いや妥協があるし、そんな場には当然のように政治の世界の偏差値エリートがこっそりと介入してくる。
養老孟司先生のことばが沁みる。
偏差値エリート(≒各界の上位の少数派や有名人)は嘘をつかないと思われてるが、現代では欲のために嘘をつくことが珍しくない。
嘘の多くは、自分に利益誘導するポジショントークでもある。
世の中はどんどん複雑さを増している。
問題が複雑化してるというよりも、同じ問題なのに答えが複雑化してるのだ。
正解に条件が付くようになっているのだ。
条件次第というポジショントークがまかり通る。
このような時代になると、手っ取り早く答えだけが欲しい人は偏差値エリートを頼るようになる、その方が手っ取り早そうだからだ。
偏差値80の人に偏差値50の悩みを相談しても噛み合わない方が自然なはずだが、何故か大は小を兼ねると考えるのだ。
偏差値エリートではない人が、偏差値エリートをお手本にしてはいけない。
最近の各界の偏差値エリートはノイジーマイノリティ化してるように感じられるのは、彼らは彼らで行き詰まっているからだ。
相談相手を間違えるとカモになるだけなのが現代だ。