違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

共感やアンチというポジショントーク

わたしは、今一部で話題の西野亮廣さんが好きではない。

 

キンコン西野、吉本興業退社 「プペル」宣伝巡り対立 SNSで“示唆”から3日後に  2021年1月30日

西野は今月27日に自身のツイッターに、LINE上でのマネジャーとのやりとりの画像などを投稿。「連日走り回ってくださっている吉本興業外部のスタッフさんに対しての吉本興業の対応がナメ腐っていたので、会社ごとガン詰めしました。しっかりしろ!」などと綴っていたが、投稿からわずか3日間で、急転直下の退社劇となった。

 

 

この記事で興味を惹かれたのは、ここに書かれてる、

 

吉本興業外部のスタッフさんに対しての吉本興業の対応が…

 

という点で、これは立ち位置やポジションの違いから生まれたポジショントークの問題だなと感じられた。

 

西野亮廣さんは吉本興行に所属しながら吉本興業と利害を対立させていたことが分かる。

 

 

同じく吉本興行に所属する東野幸治さんはこう言っている。

 

 

 

 

このツイートのおもしろいところは意味がどちらにも取れるところで、お笑い芸人としての表現だ。

 

 

 

 

どこまで本当か分からないが、東野幸治さんは西野亮廣さんが大嫌いだという書き込みも見かけた。

 

 

東野幸治さんのツイートを受けてというわけではないが、次のようなツイートもあった。

 

 

 

 

①②③の条件とは、

 

 

 

 

 

つまり、

 

 

 

 

この流れで西野亮廣さんにどういうイメージを持つかというと、当然アンチになるはずだ。

 

 

最後のツイートに書かれてる身内の取り巻きというのがキーワードだと感じられる。

 

 

ファンになるかアンチになるかは、付き合いや関係性の距離感や、さらにいうと利害の一致の有無で、それらの関係性を総合して身内の取り巻きが決定されるのだと思える。

 

その境目には大きな壁というかバリアが存在してるはず。

 

ポジショントークの多くは、壁やバリアを挟んで展開される。

 

 

 

西野亮廣さんから離れた話題で似たようなものを探すと、

 

 

 

 

 

音楽イベントと書かれた部分は、全てのイベントに置き換え可能だ。

 

大人のイベントだけではなく家族のイベントだってあるだろうし、中止になった運動会や遠足や修学旅行という子供のイベントにだって当てはまる。

 

 

ニュースとしての扱いの違いは、まさに利害という観点からのポジショントークであり、いわゆる大人の事情そのものなのだ。

 

 

ポジショントークとは犯罪者の弁護をする弁護士には必須の能力だ。

 

弁護の余地が全くないと思われる場合でも、あの手この手で正当性を主張しなければいけないからだ。

 

弁護士のような気持ちで、自分自身が自分の大嫌いな人間と全く同じ立場だったらと想像すると、人に言うのも悍ましい振る舞いを正当化する気持ちが理解できたりすることに気付ける。

 

実際に起きる世間の極端な事例の多くには、犯罪であっても一定の割合で擁護者が現れる。

 

一般論では加害者が悪いはずだが、被害に遭う方に落ち度があるという意見はなくなることはない。

 

処世術としては、加害者にならないことを意識するよりも、被害者にならないことを意識する方が賢明とも思える。

 

 

さて、西野亮廣さんに話を戻すと、一連の出来事は西野亮廣さんが一人で起こしてる出来事だろうか、それとも誰かに操られるように取った行動なのだろうか?

 

誰かは、西野亮廣さんを取り巻く空気も含めてだ。

 

2年前にこんなことがあったらしい。

 

スピリチュアルな取り巻きも? 西野亮廣は“教祖様”なのか 2019/05/29

3月23日、近畿大学の卒業式に招かれたお笑いコンビ・キングコングの西野亮廣さんが、卒業生に向けてスピーチを行いました。その模様を収めた動画が、4月中旬にネット上で大きな話題になったことをご存じの方もいるかと思います。

 

この動画を見てみると、西野さんは自身が登壇する際、会場が盛り上がらなかったことについて、近大の学生を言葉巧みに責めます。そして「パラパラの拍手でキングコング西野を迎えるのか? それとも、割れんばかりの大歓声でキングコング西野を迎えるのか? 決めるのはあなた方です」と言い、登壇をやり直し。二度目に登場した際には、大きな拍手と指笛が聞こえる中でステージに立ち、「やればできんじゃん!」と絶叫しました。Twitterでは「カルト団体が人を支配する時に“罪悪感”を抱かせる手法と似ている。これに感動した人は危険だ」なんて指摘する人がいて、ギョッとしてしまいました。

 

 

 

この時の近大の卒業生には申し訳ないが、西野亮廣さんのような人物を正当化させるのは、拍手や指笛をしたような人の存在で、それこそが取り巻きの正体だろう。

 

この場合の取り巻きは、西野亮廣さんに従わされた取り巻きだが、取り巻きの中には、西野亮廣さんが従わざるを得ないものもあるはず。

 

オウム真理教に例えるならば、西野亮廣さんは麻原彰晃ではなく、その他大勢の幹部の一人に過ぎないはず。

 

 

生きてる人は、何らかのポジションを持っていたり与えられたりしてるのが当然なので、全ての発言はポジショントークになりうるが、多くの人にとってポジショントークは是々非々でケースバイケース。

 

 

絶対性をアピールし、求めてくるポジショントークに近づいてはいけない!