昨日、岡本太郎の根性論というブログを書いて、その記憶がしっかりある中で今朝次のようなツイートを目にした。
キングコング西野氏のスピーチ《近畿大学》:
— 吉澤準特|ロジカルシンキング&図解 (@juntoku_y) 2021年2月3日
西野マジックが光る、プペルで好きなシーン pic.twitter.com/j1mXuBtNUs
これはこれで一種の根性論なのだろうと感じられた。
しかし、間違いなく岡本太郎の対極に位置してるとも感じられた。
岡本太郎のことばを借りるなら、『勝ちゃいい』だ。
似たような表現は他にもある。
宝くじは買わなければ当たらない、とはよく言われる。
ギャンブル必勝の極意に、勝つまで続ければ負けない、というのがある
自分が勝つのは大変そうだからだろうか、勝ちたがってる人を相手に商売するのがいいんじゃね、というものに砂金掘りにツルハシを売るというのがある。
身近なところでは、
最近だと、映えを意識したり、写真より動画だという動きだけでなく、テレビタレントがテレビという紐付きの束縛から逃れるようにYouTubeへのシフトも顕著になっているが、そうなるとコンテンツも二極化してくる。
二極化というと、質やレベルの高い低いを意味するように感じるかもしれないが、それ以上に顕著なことがある。
YouTubeでも砂金掘りにツルハシが顕著。
クリエイティブとしてのコンテンツを競っているようでありながら、写真や動画のためのカメラや機材紹介であったり、アプリやソフトを使っての編集テクニックを紹介するものがとても多い。
作ってる方にとってはコンテンツなのだが、所詮は道具に過ぎない、そう思った時にそのような種類のコンテンツをコンテンツたらしめてるのは、伝えてる内容よりも表現の仕方に垣間見える喋り方などの個性に感じられる。
これらをレビューというキーワードで括ると、Amazonあたりが元祖になるのだろうか。
レビューに滲み出る個性の濃淡で、人気や再生数に差が出るように感じられる。
これらを見てるとおもしろいことに気付く。
私のように冷めた目で分析するつもりでも、やりたいことの参考にするつもりで見てるはずなのに、機材やテクニックの沼にハマってしまいそうな気になりかけるのだ。
機材やテクニックの延長線上にやりたいことがあるように思えてくるのだ。
やりたいことがあったような気がしたが、あれはなんだったんだろうということがある。
自由にやりたいことを求めて生きることが自然なはずなのに、やりたいことがいつの間にか道具の使い方にすり替わってしまう。
道具には悪知恵も含まれる、だから詐欺だらけになるのだ。
習い事の多くも、道具のバリエーションを広げることに似てるように感じる。
少し脱線気味になったが、クリエイティブとしてのコンテンツに興味や関心を持ってるはずなのに、本筋から離れて道具やテクニックに活路を見出そうとするのは、論点をずらすことであり、詭弁を弄することに似てるのだが、そんなつもりはないのに陥ってしまう落とし穴でもあるのだ。
以前あるアニメを見ていて、外国で傭兵をしてる人物が、『生まれ故郷に帰りたいのに、生まれ故郷がどんどん遠くなる、帰りたいのに帰れない』と言っていたことを思い出す。
本当にやりたいこととは生まれ故郷のようなものかもしれない。
すぐそこにあるようでとても遠かったり、すでに存在してなかったり、ただ脳裏にのみそのイメージがあるだけなのかもしれない。