違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

情報が作るバカの壁!

2月13日の大地震、実際に揺れを体感した方が発する声はすべて、当事者が発する一次情報になるはずだ。

 

実際に感じた揺れの程度や被害の程度に関係なく。

 

次のツイートを見ると、東海地方の方までは、なんらかの揺れを感じていたと思われる。

 

 

 

 

一方、この地震に全く気付くことなく、翌朝目覚めてニュースとして地震のことを知ったわたしのような立場が入手する情報は、すべてが伝え聞くものばかりになる。

 

 

知識レベルでは大差なくても、体感があるかないかは大違いなはずだ。

 

 

 

本来の定義からは外れてる解釈になるのかもしれないが、情報には、最初の大元である一次情報もあれば、一次情報を受けての二次情報もある。

 

以下同様の流れで三次情報となってゆくという流れもある。

 

 

以下は、地震がきっかけで思ったこと。

 

人はどこまで他人を理解できるのだろうかというのがテーマになるだろうか。

 

情報化社会と言われてるが、情報の総量に対して二次三次さらにその下が占める割合が圧倒的に多いのが当然だが、それに対して特に健康医療面では、その情報はエビデンスを担保してるのかが問われることが増えた。

 

このことは、エビデンスを備えてるとされる一次情報こそが最も高い価値を持つという勘違い(あえてそう呼ぶが)を起こさせる。

 

学校の授業で習うことは基本は一緒のはずだが、先生として誰に習うかで人生が大きく変わるほど大きな違いが生まれる。

 

つまり、二次情報や三次情報として加工されたものにこそ価値があるという場合があること(当然逆に悪い場合もあるが)を体験として持ってる人も少なくないはずだ。

 

それとは反対に一次情報を知らずに、二次三次の情報しか持っていなければ肝心なことを理解できてない場合もある。

 

 

素晴らしい先生に出会えるか、はたまた残念な先生に出会うかで人生が大きく変わりうるように、どんな情報に出会うか、どんな情報の解釈に出会うかで人生は大きく変わりうる。

 

 

知ってる人は知っているが、知らない人は知らない、この当たり前の事実がどれほど大きなギャップを生み出すかという思いを感じたのがヨーロッパでの難民政策で、わたしも陥っていた一人だ。

 

何も知らずに見てると、虐げられる移民や難民の姿しか見えないが、こんな事実があったことで舵が大きく変わったのだ。

 

2016年の話。

 

ケルンの集団性的暴行で激震に見舞われるドイツ 揺れる難民受け入れ政策

新年早々、ドイツが激震に見舞われている。西部ケルンでニューイヤーズ・イブ(大晦日の夜)、560人以上の女性が大勢の男に取り囲まれ、股間や胸をまさぐられる性的暴行や窃盗など650件以上の被害にあった。ユダヤ人迫害の暗い過去を持つドイツは難民と犯罪を結びつけることをタブー視してきた。しかし容疑者の半数以上がアルジェリアやモロッコなどの難民だったことから、国内だけでなく欧州を2分する論争に発展している。

 

 

この手の出来事が起きると、必ず巻き起こるのが『一部の話で全体を語るな』ということだが、表現こそ違え日本人は本当はよく理解してるはずなのだ。

 

これは養老孟司先生が言ったバカの壁そのものだからだ。

 

 

 

 

 

 

2003年に出版され累計で440万部が発行されたが、借りて読んだ方を最大に見積もっても日本人の10人に1人しか読んでないはずで、世間的には圧倒的に大多数が読んでないか、読んだのに忘れているかなのだろう。

 

 

 

人が分かり合うというのは、思っているよりもはるかにハードルが高いのだ。

 

人が分かり合えてるように見える場合、多くは価値観を共有できているというよりも、利害を共有してるに過ぎない場合がほとんどだ。

 

 

こんな話もある、奇しくもケルンの暴行事件が起きた2016年の記事。

 

あなたが友だちだと思っている人の半分はあなたを友だちだと思っていない

自分が「友情」と考えている関係のうち、相手も「友情だ」と考えている関係は約半分だということが研究によって判明しました。つまり、この内容に従うと自分が「友人だ」と考えている人の半数は自分のことを友人だと考えておらず、また自分が友人だと思っていない人の中にも自分のことを「友人だ」と考えている人がいるということ。なぜこのような認識の差異が起こるのか、そもそも「友情」とは何か?

 

 

大人になると友達がいなくなると言われるが、その数少ない友達ですら実態は結構怪しいのだ。

 

 

最近でいうと、オリンピック組織委員会の会長人事を巡って起きていることも、バカの壁で説明が付きそうな気がする。

 

 

 

地震の揺れを体感した人だったら、少なくとも体感した者同士だったらなんらかの価値観が共有できてるはずだと自然に感じるだろうが、そういうところにもきっとバカの壁は存在しているはず。

 

 

グローバル化やインターネットのおかげで、わたしたちは広い視野を持って生きていると思いがちだが、実際には自分自身が思っているよりもはるかに狭い価値観や領域の中で生きていることを忘れてはいけないような気がする。