インターネットが登場し普及していく過程で感じていたことが、オープンであることと、フリー(無料)であること。
これらが浸透する様は新鮮だった。
もちろん中には悪意を秘めたものもあったが、大きな流れでは歓迎されるものばかりだった。
20世紀と21世紀の大きな違いは、情報や情報処理が『クローズド&有料』から『オープン&フリー』への動きを見せたことだった(と思う)。
個人的にはとても恩恵を感じられたが、そういう人は少なくないだろう。
お金や機会の有無が、知るということを不平等なものにしていたが、少なくとも表面的な情報に関しては限りなく平等が到来したように感じていた。
『クローズド&有料』の環境下では、入口を通過できるかできないかで選別されがちになりやすく、インプットの違いで差別化されがちになる。
インプットのレベルを競争しようとすると、評価の軸を客観化する必要が生まれる、いわゆる一般的な試験やテストのようになる。
これが『オープン&フリー』の環境下になると、モチベーションに差がなければ、インプットのレベルでは大きな差はつかないので、差別化はアウトプットで判断されるようになる。
アウトプットのレベルを競争しようとすると、評価の軸は極めて個人的な主観に基づくようになる、最終的には好きか嫌いかになるはずだ。
スマホの普及が後押ししたのは『オープン&フリー』の主観的な価値観で、いわゆるフォローしたりされたりに現れる動きになり、代表格はTwitterやブログで、Facebookのようにアカウントに実名が求められるようなものはフリーではあってもオープンさでは劣っていてクローズドと言えそうだ。
こんな話をわざわざしようと思ったのは、巷で話題の、と言っても既にブームは下火に感じられるが、Clubhouseがブームになったことが示しているのはなんなのだろうかと思ったから。
Clubhouseの最大の特徴は招待制でかつ招待枠が小さいことだとわたしは捉えた。
自由にテーマに基づきしゃべり合うが、決してオープンではないということが特徴だと感じた。
おもしろいことに、どうやらそのクローズドな閉鎖性に中毒性があるらしいことだ。
もちろん、テーマや参加メンバーが誰でも良いわけではないだろうが、初期のインターネットに無限の世界観があったのに似た気持ちに近いのかもしれない(私はやってないけど)。
既に一部で下火になっているのは、その中毒性に気付いた人が「これはヤバい」と離れているように感じられる。
そこで思い出したのが、ネットワークビジネスやネットワークビジネス的な展開をお手本にするビジネスの多くが、本業とは関係ない社会性のあるテーマに関してセミナーを開くことで人を集め、集めた人を会員に取り込もうとすること。
Facebookが人のつながりや人間関係を可視化すると言われるが、それをさらに選別をかけようとするのがClubhouseで、最終的にはお金や欲でつながる人間関係を可視化するためのアプリなのでは感じられた。
Clubhouseをやってるということは、それだけでカモリスト入りしてることになるかもしれない。
新しく出てくるもので、オープンではなくクローズドに展開されるものは、その裏にある意図を勘繰るくらいでちょうど良いような気がする。
もちろんオープンに展開したことで失敗したなと判断されるようなことがあった場合はクローズドな展開にシフトするだろうが、その場合にはそこに至る物語も見えてくるはずだ。
なんの物語もないのに、クローズドに展開されるものとは距離を取った方が良いような気がする。
今日はこれ以上は触れないが、『クローズド&有料』で展開されるものにサロンがある、これはこれでネットワークビジネスがお手本だと思える。