違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『東日本大震災』を知らない子供たち

東日本大震災から10年経つという報道が増えている。

 

カメラを誰でも持っているし、至る所に設置されているので、多数の映像が記録されていて、揺れを全く感じなかった人でも情報としてはかなりのレベルで共有共感できたように感じられる。

 

発災からしばらくの間は、忘れようとしても忘れられないし、あえて語り継がなくても語り継がれるような印象すらあった。

 

 

しかし、人間が歳を取るとともに、鮮やかに覚えてるつもりのことの多くが、実は細部はあやふやということはよくあるようなことを、東日本大震災にも感じ始めてるような気がする。

 

10歳以下の年齢の子にとっては東日本大震災は歴史の勉強だし、地震当時小学生以下の年齢だと、当事者を除くとよほど社会に興味を持ってる子以外だと、『そんなことがあったような気がする』というレベルなのかもしれない、と自分が小学生の頃に世の中で起きてた事件や事故を知って感じる。

 

 

 

 

東日本大震災の場合、悲劇は地震や津波だけでなく、むしろその後の原子力発電所の破壊の方が語り継がれる要素として大きくなっている。

 

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第二次世界大戦が終結したのが1945年。

 

日本が参戦したのが1941年末。

 

戦争の悲劇はどの程度語り継がれてるだろうか?

 

日本の場合、戦争の悲劇は原爆の悲劇として語り継がれてるような気がするのは、原爆が象徴的な存在だったからだろう。

 

 

 

1970年に出た歌に戦争を知らない子供たちがある。

 

「戦争を知らない子供たち」(1970年) 歌:杉田二郎 作詞:北山修 作曲:杉田二郎

 

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『戦争を知らない子供たち』の歌詞

 

 

終戦後25年経過して生まれた歌になる。

 

つまり、この歌が出た当時の年齢25歳以下は戦争を体験として知らないのだ。

 

この歌をどう捉えるか当時賛否両論あったらしいが、解釈に正しいも間違いもないだろう。

 

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東日本大震災でも、語り継がねばならないという声もあれば、もう忘れさせて欲しいという声もある。

 

 

それでも語り継ごうとすると、どうすれば良いのだろうかと思っていて、ふと思いついたのが、もしかしてそういう役目を果たすのが御伽噺ではないのかなと思った。

 

きっと紙芝居とも相性が良いだろう。

 

そうすると、子供に伝えることができる。

 

しかし、それだと現代的ではない。

 

だとしたら何があるのか?

 

 

たぶん歌だ。

 

 

『戦争を知らない子供たち』は御伽噺として機能してるのだ。

 

 

しかし、この歌ももうすでに知らない人や忘れてる人の方が多いのかもしれない。

 

 

東日本大震災に関して、語り継がれるであろう御伽噺や歌は生まれるだろうか?

 

生まれてるのにわたしが知らないだけだろうか?

 

だとしたら、御伽噺にはなり損ねているような気がする。

 

 

ナマズが暴れると地震が起こるというのは、御伽噺として作られた話ではないのかなと思えてくる。

 

 

以上、東日本大震災から10年ということで思ったこと。