実際に流行してヒットしてることと、ヒットしてるように見えることの間にはギャップがあることが増えた。
昔はヒットしてるように見えてるものの多くが実際にヒットしていたのに対して、最近は、大してヒットしてるわけではないが、ヒットしてるように感じられるものが増えたように感じる。
よく言われるところのネット広告のパーソナライズのせいだけではなくだ。
SNSの影響もあるだろうし、興味あるものは多様に検索してるだろうし、紙媒体の情報からも積極的に情報を集めようと自然にしてるはずだ。
そうすると、異なる切り口で自分が興味あるものが好意的に取り上げられていたりすると、『これはヒットしてるに違いない』、『みんなが欲しがって当然だ』と無意識のうちに思ってしまうだろう、わたしもそうなる。
広告業界が、インフルエンサーを活用したがるのはそのせいだろう。
自分が関心を寄せてる人が、好意的に感じてる情報へは好意的な先入観が芽生えるだろうし、その反応は自分だけでなく誰でもだと錯覚しがちになりやすいはずだ。
この、情報にヒットを感じるということは、自分の中でその情報への価値が高まっているということであり、その価値は希少性に対する価値と共通するはず。
別に限定されてるものでなくてもだ。
自分にとっては、ほかに代わりがないであろうというレア度の高まりと同じように。
“初ツイート”競売 2億円超えの価値はどこから? デジタル資産「来歴」と「証明」 3/10(水)
この記事は、次のように締め括られている。
「物の大量消費・大量生産が終わって、新しい資本主義の流れが来ていると言われるが、人間の欲望に際限はない。みんながハイブランドを持っているような時代が来ると『これ(みんなと同じもの)を持っていても価値がないよね』と思い出す。すると、次は『この世に今これしかない』にどんどん価値が集まって、希少性に価値が移っていく。今回のツイートだけでなく、今後もデジタル上の写真やアート作品にも価値がついてくるだろう」
アナログな時代の希少性とデジタルな時代の希少性は全く違う。
なぜならデジタルはコピーが簡単で、且つ、オリジナルとの違いがないからだ。
アナログ時代の絵画の価値は、コピーとしての贋作をつくることの困難さがオリジナル性の担保に役立っていたはず。
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アナログ時代には当たり前だったことで、デジタル時代には困難になったことに、俯瞰で物事を見るということがある。
地図の見方が象徴的で、この流れはスマホの普及以前のカーナビの普及の頃に遡る。
アナログ時代には、ドライブには地図帳が必須で、その際にはごく自然に、自分がどこに向かおうてしてるかを日本地図上ではどこに当たるのか、都道府県内だとどこなのかを把握していた、というよりも把握しようとしなくても把握できていた。
それがカーナビの普及で地図を見る必要がないどころか、運転しながら目の前にあるランドマークになるような景色ですら目に入らない人が増えた。
若い人でカーナビネイティブな人だけでなく、かつては自然にやっていたことができなくなっている人も増えている。
初めての場所にスマホの地図アプリを頼りに訪れた人が、次に地図なしで訪問することが不可能な人が街に溢れているのだ。
交通機関の発達やインターネットの発達で、相対的に地球が小さくなったように感じてるかもしれないが、相対的に小さくなって俯瞰で見渡しやすくなってるはずなのに、俯瞰で全体を見渡すことができなくなっている。
つまり、情報を俯瞰的に見渡すという能力が、希少性を持ち始めてるのだ。
アナログ時代では、難しいことができるから希少価値があったはずだが、デジタル時代では、できる人にとっては、できないことが不思議な程度のことができることに希少性が出ていると言えるかもしれない。
自分が興味あるものは、それに関する情報が目につくので、まるで流行してヒットしてるように感じられる。
そのヒットしてるかに感じる錯覚は、近視眼的な見方のせいなのだが、そういうことが世間の至る所で起きているので、俯瞰で全体を見渡せる能力やセンスの希少性が増していそうだ。