世の中には、一回見ただけで、或いは一回読んだだけでその内容が頭に入る人がいる。
当然、このような人は受験勉強には強いので、そういう人を羨んだこともある。
一方わたしは、馬鹿じゃないつもりだったが、単純記憶系の作業が苦手だった。
この本には、マルチタスクの弊害として、海馬に記憶されることが望ましいことが、マルチタスクのせいで大脳基底核の線条体に記憶されることがあるとコラムとして書かれている。
一般的に事実や経験のようなものは、同時に多数の記憶と結びつくが、それはマルチタスクで得られた情報でなく、多数の情報や経験を全部引っくるめて一つの情報として海馬に記憶するかららしい。
旅行で訪れた街の景色は、その時聞いた音や感じた匂いやその他たくさんの事実や経験が全部まとめて一つの記憶として海馬に定着する(らしい)。
それに対して、線条体で記憶すると、覚えたことの一つ一つが独立してバラバラになりがちで、それがその後の体験や事実と結びつかなければバラバラなままらしい。
ただし、線条体へ記憶されるということは、それは快楽の記憶となるのだ。
断片的な情報に過ぎなくても、線条体に記憶されると、それは快楽の記憶となるのだ。
記憶系の勉強が得意な人がどんどん知識や記憶が増えていくのは当然だ。
この話(理解は中途半端な気もするが)を知って、わたしは線条体で記憶するのが苦手で、なんでも海馬で記憶しようとしてるのかもしれないと思い当たった。
だから歴史の年号を覚えるような単純な覚え方が苦手で、理屈を伴うものの方が覚えやすい。
テレビで『今でしょ』の林先生が、漢字の話をする時にただ正解を言ったり書いたりするだけでなく、その由来まで語ってくれると、同じ漢字でもただ字だけを覚えることと、由来まで知って覚えるのとではきっと記憶される脳の部位が違うのだろうなというのが実感できる。
このように、海馬で記憶することと、線条体で記憶することの間に、分断が生じてるのではと思い始めていたが、少し調べるとおもしろい話が出てきた。
その前に少しイメージして欲しいことがある。
鮮明で間違いのない記憶だと思っていたことが、実は事実と違っていたということは世間では良くある話で、記憶はさまざまな別の記憶や体験や事実や嘘や想像とも結び付き、記憶自体が変化していくことがある。
こんな時、正解を教えてもらっても、『ああ、そうだった』とはならない、むしろ『そっちの方が間違っている』と思うような気がする。
そんな違和感を解消することに瞑想が役に立つと言ってるような話を紹介したい。
「洞察瞑想時に、腹側線条体と脳梁膨大後部皮質の結合性が低下することを発見しました。この結果は、今この瞬間の経験に「ありのままに気づく」際に、自分の過去の経験に関する記憶に捉われる程度が低下していることを示唆しています。」京都大学https://t.co/1kC29q66KY
— 中島 智 (@nakashima001) 2018年7月7日
宗教と藝術に関連する問題。
リンク先のPDF(3ページ)を読むと、人間は事実や体験で一喜一憂してると感じていたが、事実や体験に記憶が連動することで一喜一憂してることが感じられる。
事実や体験よりも記憶の方が厄介らしい、とわたしは受け取った。
瞑想の効果に、科学や医学も注目してることが感じられる。
さらにおもしろそうな話もある。
厄介な記憶の呪縛から解き放つために瞑想が有効なのとはメカニズムは違うようだが、移動することの効果が脳には絶大のようなのだ。
結果、移動に幸福を感じている人間の脳では、記憶を司る海馬と快楽を司る線条体(共に黄色い部分)の活動に強い連携が確認されました。
この記事では、移動のスタイルについては書かれてないが、動物実験との比較もあることから、基本は歩くだろうと感じる。
人間を定義すると、二足歩行の哺乳類となることから、歩くというのは人間にとって特別なことだから。
いつもと違う、ちょっと遠回り、このような行動を楽しめる人は、脳が快感を感じているだろうから、特別なことは何もなくても幸せなのだろう。
ちょっとした習慣の違いで、幸不幸の差が大きくなってるような気がする。