経済の成長や拡大には限界があるという話は5年くらい前からよく聞くようになった、いわゆる資本主義の限界論であり終焉論。
そして、コロナを巡ってこんな指摘も出てきた。
成田悠輔先生が朝日新聞に寄稿
— 諸隈元シュタイン (@moroQma) 2021年4月15日
米国流の民主主義と中国流の専制国家の対コロナ政策を独自分析したら、人命的にも経済的にも民主主義が敗北
という結果は薄々わかってたけど、その理由を物語るEU前委員長の一言が重い
「何をすべきか政治家はわかってるんだ。すべきことをしたら再選できないこともね」 pic.twitter.com/KjGDNdZakC
なるほどと思えるし、ゾッとする話でもある。
超人的な速さと大きさで障害物が現れる世界では、凡人の日常的な感覚(=世論)に押し流される民主主義はズッコケる運命にあるのかもしれない。
日本にいると見えづらいが、世界は民主主義の方がマイナーになっているらしいのだ。
これも日経新聞
— 諸隈元シュタイン (@moroQma) 2020年10月29日
2019年に民主主義国・地域は世界に87、非民主主義が92で、人口ともども民主主義が18年ぶりに非民主勢力を下回る
当時最も民主的と云われた憲法下でドイツはヒトラーの全体主義を選んだ
その仇敵チャーチルの言葉も今や空しく響く「民主主義は最悪の政治形態だ。民主主義以外を除けば」 pic.twitter.com/bnHkUSt8pX
資本主義や民主主義ですら絶対的に安定したシステムではなさそうに見えてくる。
そう、これは見え方の問題なのかもしれないのだ。
先日、絵心もないのにApple pencilを買って、少しずつ楽しんでいるのだが、根本的にセンスがないので理屈を学ぶことがセットで必要になる。
理屈が分かることには、新鮮な気付きになることもある。
人間の目が捉える映像と写真や絵の違いなど考えたことなかったが、写真も絵も一点から一方向を見たものの映像化なのに対して、人間の目は視野が狭いため絶えず眼球を動かしながら見ている。
多くの場合は、眼球が動く時にはそれに合わせて顔や頭も動くが、顔や頭を動かさずに眼球だけを動かすこともある。
つまり、何かを見てるときは、何かを連続的に正面で捉えようと目は動くのだ。
絵心のない人の絵がおかしくなる理由の一つは、目が捉えたままに描こうとすることにあるのだが、それは行為としては自然なことなのだが、描かれた絵は不自然になる。
その不自然さを解消するテクニックを体系的に整理したものがパースと呼ばれるもので、Wikipediaでは遠近法として載っている。
絵心のない人は、パースについて書かれた本など読むと新鮮な気持ちになれるはずだ。
ちなみにわたしは、図書館でこの本を借りて毎日少しずつ読み進めてる。
パースについて書かれた話の最初に出てくるのが消失点。
絵心があるような人は、センスで感覚的に捉えられてるのかもしれないが、人間の目にはまっすぐに見えてるものでも、絵に書く場合には傾きをつけないと不自然になる場合があるのだが、その傾きの延長線上の行き着く最終点が消失点になる。
Wikipediaには消失点の例として次のような画像がある。
冒頭で紹介した、資本主義や民主主義が限界や終焉を迎えつつあるように見えてる現象は、本当に限界を迎えつつあると捉えることも出来れば、消失点が意識されたと捉えることもできそうだと思ったのだ。
消失点は、そこで消失するように見えるだけで、実際には何も変化しない。
消失点をどこにどのように設定するかで絵は変わるし、当然ながらその絵にまつわるストーリーだって変化しても何の不思議もない。
ただ確実に言えるのは、消失点の設定を間違った絵は不自然だし、見てて気持ち良くないが、消失点の捉え方が巧みな絵は長時間見ても見飽きない魅力を持つ。
ものごとを捉える場合には、消失点という観点もあるのだと覚えて損はないと今更ながら気付いて新鮮な気持ちになれている。