寝起きにゴロゴロしながらYouTubeを聞いていたら『継続は力なり』と言っていた。
二度寝して目が覚めた時に『継続は力なり』だけが頭に残っていた。
YouTubeの中で誰がどういう状況に対して言ったのかは全く思い出せない。
継続は力なのか?
一念発起して何かをスタートする場合、誰の心にも片隅に『果たしてどこまで続くやら?』という自分自身に対する懐疑心がほんの少しはあることに気付いていることが多いだろう。
だからこそ『継続は力なり』と祈りのように、呪文のように、信じ込もうとする。
継続は力なりは、石の上にも三年にも通じるし、これらは根性論に繋がりやすい。
根性論になった途端に、『努力したからといって簡単に報われると思うなよ』というブラックな意味が強くなるような気がする。
一方で、果報は寝て待ても同じ種類の意味とされるが、受けるニュアンスはまるで違う。
やるべき事をやった後はジタバタしないで結果を待てば良い、という意味だが、この諺は文字通り、寝てるだけでも良い事が起こるかもしれないと思われがちで、努力を促してるとは理解されてない。
さて、本題に戻すと、継続は力なのか?
継続が力ならば、継続は正義となる。
継続は正義の代表格の極意としては、『ギャンブルやバクチで勝つためのたった一つの方法は、勝つまでやめないこと』を思い出す。
一方で、現代社会では破滅を防ぐ極意としての、損切りなど引き際の見極めが重要だと説く話も多い。
この違いは、投じた時間やエネルギーやお金に対する意識の違いの両極端にも思えてくる。
ところで、どんな人でも続けてることがある。
それは、生きるということであり、自分自身を演じるということだ。
一体、どんな脚本が与えられてこのような人生になっているのだろうか?
脚本は、この先どのような展開が設定されているのだろうか?
何かを始める場合、始めるに当たって道具が必要な場合は、安いもので始める、わたしは。
続かなかった場合の保険を掛けてるのだ。
その後、好きが高まり、継続の意思が固まったら良い道具に切り替えれば良いと思ってしまう。
書きながら、道具の部分が人の場合はと思ったが、これまでの人生で深く考えたことがなかったことに気付いた。
どんな人間関係でも、道具のように換えれば良いと思いながら始めたことはなかったように感じるが、否応なく変化した環境の結果、自然消滅のように切り替わった関係は実にたくさんある。
これまでの人生で続いたことは、結局自分自身を演じることだけだったように感じるし、それしかできないように感じる。
まるで禅問答だ。
継続は力なのか?