ITの発達と普及によって静かに進んでいたのが営業スタイルの変革。
とりあえず会わなければ始まらないや、とりあえず駆けつける、こういうスタイルは20世紀には必須だったし有効だったし、時間を遡ればそれしかできなかったとも言える。
だから、商品は営業パーソンだと言われたりもしていた。
21世紀に入って20年も経過すると、このようなスタイルが成り立っているのは今となってはむしろマイナーだし、生理的に嫌いだという人は営業される側だけでなく営業する側の人にも多いはずだ。
コロナ禍で、対面の機会がさらに減ったことで、そしてそれに対処する方法もそれなりに浸透したことで、この流れはさらに進んでいる。
営業というジャンルの仕事がなくなるわけではないだろうが、大きく変わっていることだけは間違いない。
営業というジャンルの周りには、する側とされる側合わせるとものすごく多数の人が絡み合って、まるで大きな川の流れのような存在だったはずだが、その川は現在では細く干上がりかけている。
流れは、別のところに移ったのだ。
釣りに例えるなら、せめて水のあるところに釣り糸を垂れろ、というのは鉄則だが、現実社会では水が見え辛いので、水のないところに釣り糸を垂れてしまう人は多いだろう、確かここには水が流れてたはずだという記憶を頼りに。
今日たまたま複数の同じことを言ってる話を見かけた、その一つを紹介。
ピーター・ドラッカーの言う「販売が不要の世界」がやってきた。
かつて、ピーター・ドラッカーは、「マーケティングの理想は、販売を不要にすること」と述べた。
この中ではMR(薬メーカーの営業)が事例として取り上げられている。
製薬会社の方はこう言った。
「MRの仕事は激減した。けど」
「けど?」
「MRが訪問してもしなくても、売り上げ変わらなかったんだよね。
医師の側でも「別に来なくていいよ」と思ってた人、多かったみたい。
だから、ま、いずれはこうなったってことだよ。」
この営業不要は営業パーソンが不要ということを意味し、最近よく言われる機械化や自動化や省力化と受け取られがちだが、実は違っている。
従来のスタイルしか展開できなかったときには、生じてるミスマッチは無視されがちだったのだが、展開する方法が拡大するとミスマッチに目を瞑ることができなくなっただけなのだ。
変化が著しい現場は、ミスマッチが多かった現場で、現在はミスマッチにNOが突きつけられているのだ。
そんな自覚や意識を持ってないのに、結果的にそう振る舞ってる人も多いはずだ。
毛色が変わったミスマッチの事例としては次のようなものもあった。
葬儀不要、僧侶不要云々の話題は、なんだか見ていて痛々しい。
— ながおか|念珠(数珠)を作ること、作り方を教えること (@nagaokanenju) 2019年6月26日
普遍的なものだと思っている人と、単に需要と供給のバランスの問題という人がいて、つまりは今後ますます供給過多。
仏法僧は普遍的だけど、不変ではない。変わるのサボって時代とミスマッチしてきたのが今なのかなぁ。
さらに、こうなる。
広がる雇用ミスマッチ 失業者の30%「望む仕事ない」 日本経済新聞 2021年5月14日
時代に取り残されてるから起きてる現象ではなく、時代に適応するために起きてる現象なのだ。
確かに昔はマッチングできていた市場が実はミスマッチだったと明らかになってくると淘汰されていくのだ、まるで『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』と言わんばかりに。
このように考えると悪いことではないように思えてくる。
歴史はこれを繰り返していたはずだ。