清水ミチコさんが語るタモリ論が味わい深かった。
人が十代の頃に感動した事は、その人の一生に渡って影響するものですね。いかに若い頃に、いいものと出会うことが大切かということが、今ごろになってよくわかります。
引用した箇所は共感できるし、おそらくいつの時代にも当てはまるだろうと思えるが、最も感銘を受けた部分ではない。
最も感銘を受けたのは、タモリさんの番組で司会をしていた永六輔さんから教わったとして紹介されていた言葉だ。
ステージの人間が興奮し、客席も興奮している現場はまだ二流。
ステージ側が冷静で、客席だけ興奮させるのが一流。
そしてステージ側が興奮し、客席だけ冷静なのが三流。
この後に続くのが、
傑作な言葉です。これを思い出すと、ステージのタモリさんは常に一流でした。
以下は、この話を踏まえて思ったこと。
上記の話はステージに立つ側から話で、一般人にとっては極めてレアな視点だ。
ステージに立つ側の人間に一流、二流、三流が存在するのなら、おそらくステージを見る側にも一流、二流、三流が存在していてもおかしくない。
ステージ上のアーティストと観客の関係は、競技場の選手と観客にも通じそうだし、料理を作る人と食べる人の関係にも似てそう。
教える人と教わる人の関係にも、頼む人と頼まれた人の関係にも、売る人と買う人の関係にも当てはまりそうだ。
つまり、客観的な視点で見てるようで、実はかなり主観的で、かなり好き嫌いに左右されてるだろうこと全般に当てはまると感じられる。
だからこそ評価は感情的になり、辛辣になる。
鑑賞したり、評価したりは、主観が入れば入るほど、される側との真剣勝負の側面が強くなるのだ、そうは思ってなくても。
その都度、する側もされる側もお互いに、一流、二流、三流と評価され合うのだ。
数日前から世間で話題なってる、大坂なおみの記者会見拒否宣言事件にもこの一流二流三流の構図は当てはまる気がする。
その結果、どのような見解を持ち、そのように解釈するかにも、きっと一流二流三流が存在することになるのだろう。
意見を持つ誰もが、自分の意見を一流だと思い、自分と異なる意見を二流三流と感じてるはずだ。
永六輔さんの一流二流三流論を意識することは意義があるように感じられる。