卵が先か、鶏が先か。
因果関係にジレンマを感じる場合の定番の表現で、科学的にアプローチしてるつもりのことが、いつの間にか哲学的な課題にすり替わる場合にも用いられる。
さらに、この話は追求の度を深めるとアダムとイブの話に行き着く。
科学的なアプローチを極めようとすると、そこはなぜか哲学的な世界になってしまう。
こんなことを思ったのは、価値観と性格はどっちが先なのだろうかと思ったから。
どちらも存在してることは明確に感じるが、流動的でキッカケさえあれば容易く変化し得る。
他人のことはよく分からない、というよりも全く分からないので自分のことを振り返って、どうしてこんな性格やこんな価値観を身に付けたのだろうかとぼんやりと考えていて思いついたことを書いてみたい。
いろいろ振り返ると、価値観や性格の中には、ほとんど変化しないままのものもありそうだと気付く。
わたしの場合、小さい頃から気に入ったものはどんなにボロボロになっても自分から手離したり捨てたりすることがなく、親が捨てるまで使っていて、捨てた親には文句を言っていたことを覚えている。
しかし、自分が欲しくて買ってもらったのに、買った後『なんか違うな』と思うとその途端に気持ちが冷めることも少なくなかった。
だからだろうが、親によく言われていたのは『あなたの欲しいは信用できない、よく考えてから欲しいものを決めなさい』ということだった。
自分でも、『俺の欲しいという気持ちはあてにならないな』という自覚は高校生の頃まで続いていた。
変化を感じるようになったのは大学入学以降。
成人して以降は、自分が選ぶものに失敗がなくなったのだ。
失敗がなくなったというのは、目利き力が上がったというような意味ではなく、ずっと使い続けるものを選択するようになったのだ。
具体的には、衝動的に選択しなくなったということ。
買うまでに少々の時間をかけ、その間ずっと欲しいと思い続けられるものだけを買うようになった。
そうすると、自然に使うシチュエーションを考えるようになる。
そんなシチュエーションが自分の生活になければ気持ちはフェードアウトする。
そのため、通用する期間が短そうな流行を追わなくなった。
欲しいわけではないが必要なものを選ぶ場合には、定番を意識するようになった。
こうやって振り返って思い出したのは、大学入学前までの自分の選択眼がいかにふし穴だったかということだ。
たぶんだが、他人の目ばかり意識していて、自分で自分の気持ちに目を向けてなかったように感じる。
大学に入って以降変化できたのは、人間関係が大きい気がする。
お手本になる人もいれば、反面教師にしかならない人など、様々な人を見ることで、気付く何かがあったのだろうと思うが、それが何かはよく分からないが、自分が選ぶものには間違いはないという自信めいたものが得られたように感じる。
この自信は、失敗や嫌いという経験や体験の上に成り立っているように感じられる、失敗や嫌いの匂いがするものに近付かなければ良いんだと。
振り返って思うのは、失敗を取り戻そうという気持ちに執着することが少なかったということ。
おかげで大失敗はない代わりに、大した成功とも無縁だった。
自分の失敗体験を振り返って俯瞰で見ると、自分にだけ当てはまる失敗のセオリーが見えるはず。
そのセオリーに近付かなければ、人生は大きくは狂わないかも。