違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

オタクに見習え!

オタクということばが生まれて認知され始めた頃のオタクは、なっちゃいけない人、あるいはなりたくない人種を意味していたように感じるが、そんなオタクのイメージはすっかり変わっているようだ、特に若者にとっては。

 

 

現代のオタク論、それも若者が考えるオタク論について書かれた記事をいくつか読んでいると、そこに書かれてることが当てはまるのは若者だけではないだろうなと感じられた。

 

 

 

最近、映画やドラマの倍速視聴が増えてるらしいが、それはコンテンツが鑑賞の対象というよりも、手っ取り早く内容を確認するために便利だからで、数をこなすことで多数の作品を鑑賞してるオタクの地位を得るためで、オタクの地位を仲間内で得ることが人間関係の維持に自信を与えるというようなことが書いてあった。

 

印象的な表現もあった。

 

 

なにやら、「好きな人はいないけど、早く結婚したい」の類いに通じるものがある。あるいは、「今やりたいことはないけど、何かはしたい。だからこのサロンに入会しました」のほうが近いだろうか。

 

 

これらの行動も、倍速視聴と根が共通してると考えられるらしいので批判や批評の対象にされやすいが、批判や批評がジャンル問わず若者が嫌うようになっているという指摘につながっていた。

 

このこととつながる話として興味深い指摘があった。

 

世界的な傾向として、スポーツ観戦する若者が減っているらしいのだ。

 

応援してるチームが負けるのを見ることがストレスになるので、試合を見に行って負けた試合を見るくらいだったら見に行かない方が良いらしいのだ。

 

つまり目的はストレス解消だから、勝った試合のダイジェスト映像や、ファインプレー特集などを後から見るだけの方が良いらしいのだ。

 

 

少々極端にも感じられるが、様々なコンテンツがどんどん量産され、それらは次から次にアーカイブとして蓄積されていることを考えたら、限られた時間の中で見るに値するコンテンツの選別をどのように行うかは頭の痛い問題のはずだ。

 

筋金入りのオタクのように、自分の興味の範疇が明確に規定できてることは羨ましいくらいのセンスであり能力だと思われるのは当然かもしれない。

 

 

 

そう考えると、次の話題も根が同じに思えてくる。

 

供給者の側が手っ取り早く違法に金儲けするためにやっているという側面だけから見られがちだが、需要側の視点を意識すると、ことの是非以外に注目点があるように感じられる。

 

 

 

 

おそらく対策が行き届いた場合、映画はもう把握したいエンタメ情報から脱落するだけかもしれない。

 

大量生産される動画コンテンツは見放される直前のようにも感じられる。

 

 

 

 

オタクという存在が、自分の趣味や興味の範疇をはっきりと自覚できていて、その軸がぶれない生き方を意味するなら、それは情報ばかりが増えすぎる現代には必須な要素なのかもしれない。