インターネットの普及でごく自然に行うようになったのが検索。
キーワードを入力して行うのが検索。
望んでる情報が得られるかどうかは別にして、キーワードとしてどんなワードを選択するかにはセンスや洞察力が現れてるはずだ、特に分からないことや未知のことを知ろうとすれば。
そういう意味では、検索は辞書を引くことと同じ面も含みながら全く違う世界も見せてくれる。
未来が予定調和的で、学校で勉強してそこそこの成績が取れればなんとなく未来が明るく見えてた頃と違って、現在取り沙汰される未来は果たしてその通りになるのか本当は疑問がある。
昭和の正解は、令和では正解ではないものも増え、中には明らかに間違いだったというものもある。
さらに、答えが違ってるというよりも、そもそも問いの立て方が間違ってるということもある。
これは、知りたいことを検索する場合のキーワードの選定にも通じるはず。
世代間のギャップもこの構造に似てるだろう、同じ時代を生きていても、時代のキーワードは必ずしも同じではないからだ。
政治経済よりも文化芸能でより顕著。
政治経済面では、どうしても過去の流れを引き摺らざるを得ないのに対し、文化芸能面では過去は過去、今は今として独立して評価されるから。
新しい建物ができたり道路の拡幅が行われると、街の景色が大きく様変わりしたことに気付くが、しばらくすると以前の状態が思い出せなくなる。
その変化をリアルタイムで見てなければ、変化前の様子は想像すらできないはず。
同じ景色や風景を見ていても、思い浮かぶキーワードがまるで違っていても不思議はない。
キーワードの選定だって多様化してるのだ。
検索する側と検索される側のキーワードを巡る攻防は、釣り師と魚の関係のようだ。
釣りに例えるならキーワードは餌や釣り針になるのだろうか。
餌の種類や針のサイズを間違うと釣れる魚も釣れなくなるが、釣れさえすれば魚の種類は関係ないのなら何かが釣れるかもしれない。
一方、最近では地球温暖化の影響で魚の生息域が変化してるという話もよく聞く。
漁獲量が減少してるのは、新たな生息域を探さず『昔はここでたくさん獲れたんだけどなぁ』と同じ場所で漁を繰り返してることも関係してるらしいと聞く。
キーワードに一喜一憂することは虚しいと気付くことは処世術として重要かもしれない。