情報過多の時代では、人は見たい情報だけを見て、それ以外の情報は無いのと同じになると言われる。
見たい情報を予め設定し一生懸命探して見つける人もいるが、ほとんどの人がたまたま目の前にある情報を見たいと思ったら、それが見たい情報になる。
このような行動や判断はほとんど無意識に行われている。
球技では、ボールの動きを見極めてからそのボールの動きに合わせた相応しいプレーをしてると思いがちだが、ボールの動きが速くなればなるほどボールの動きを見定めるという判断は予想的予測的になるのは、判断してからアクションを起こすと遅過ぎるから。
似たようなことは、何気ない日常の行動にも出てくる。
正しく見極め、正しく判断しようと思っているのに、肝心要は予想的予測的にならざるを得ないことは多い。
にも関わらず、そんな予想や予測を正しく見極め正しく判断したと思い込む。
球技のようにボールのスピードが速いと予測を誤った場合は即座に分かる、しかし生活やビジネスにおける予想や予測の外れは瞬時に判明するわけではないので、予想や予測の外れに気付きにくいし、そもそも自分が予想や予測で判断していたという自覚すらないだろう。
ボールのようにスピードが速いわけではない動きを予想予測することは、仮説を立てると言ったほうが伝わりやすいかもしれない。
仮説だと理解できてれば、正しいかもしれないが間違っているかもしれないという自覚があるが、仮説だという自覚がなく、仮説にも関わらず事実だと思い込んでしまうことが世間に増えてる。
警戒してるはずなのに詐欺が頻発し被害が後を絶たないことと無関係ではないはず。
おそらく同じようなことを言ってるのだろうなと感じる記事が流れていた。
なぜSNSでは「こんなにも話が噛み合わない」のか? その「思いがけない理由」 人間の「認知」が原因かもしれない
近年、インターネットにおける分断が問題になっています。すなわち、SNSやニュースサイトなど、自分の考えに合った情報や意見を見て自分の考えを確認し、他の考えや見方があることに気づかない、あるいは不寛容になることが起きています。
ITの進歩と普及に加えてコロナによる対面行動の減少は、予想や予測に大きな変化を及ぼしている。
対面しか方法がなかった時代には、目の前にいる人の表情や仕草などは喋ってる内容以上に雄弁だったはずだが、表情や仕草という情報は現代では減少傾向にあるので、その情報価値に気付けないことは増えてるだろう。
そういえば数年前に、ビジネスで成功したければ『錯覚させることが重要』と言われてた。
嘘や騙しはダメだが、相手が勝手に勘違いするのは積極的に利用した方が勝ちだとする考えで、これも人々の行動が予想的予測的であることを示していたのだろう。
わたしたちは、無意識のうちに予想し予測しながら生きているのだ。