違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

簡単だけど難しいのが当事者意識の共有

朝、流しっ放しにしていたラジオでは子供の教育に対する親からの相談が話題になっていた。

 

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数ヶ月前に同じコーナーに相談していた方が、その当時の回答に対するその後について新たな相談を寄せてる方もいた。

 

取り上げられてる相談は不登校の子供の話題が多く、知識レベルでは新しいものは何もなかったのだが、今さらながら気付いたことがあった。

 

進行役のアナウンサーも回答者の方もともに言葉を選びながら優しく答えようとしてることがすごく伝わってきた。

 

この場合の当事者は悩みを寄せた親であり回答者であり進行役のアナウンサーなのだが、視聴者レベルでボーッと聞いてると当事者の中心は不登校の子供だと思い込みがちになるのは当事者意識がないからだったのだと気付いた。

 

 

一般的には、問題が自分に降りかかって来た時に直面するのが当事者意識。

 

当事者意識の多くは悲観的で、心配事や不安が次から次に湧き上がるだろう。

 

 

ラジオのアナウンサーや回答者が優しいのは当事者意識が共有されてるからこその悲観を楽観に転じさせたいという思いの表れだったのだ。

 

こういう時わたしは今の自分の気持ちをうまく表現してるような言葉をTwitterで検索したくなる。

 

 

 

 

共有や共感が時代のキーワードと言われながらも実際には個人主義が浸透している。

 

手柄や成果が評価される場合の多くは、評価はチームや組織でより個人に帰属されることが多くなっている。

 

当事者意識というのは共有されるものというよりも、自分だけの意識になりがちだ。

 

10年前ごろ、東日本大震災だけの影響だけではないが当事者意識が注目されていた。

 

当事者意識が世間から希薄になっていることを指摘し警戒を促していたように記憶してるが、それから10年わたしの目にはますます当事者意識は希薄になってるように見える。

 

 

最近政治に不満を持つ人の罵詈雑言は日常茶飯事になってるが、政治家にとっての当事者意識って何だろうかと考えると、清濁併せ呑むという言葉が浮かんだ。

 

良い意味ではないが、当事者意識があるからこそ利害関係のバランスを図っていたことが感じられる。

 

熱海で起きた土石流はもはや人災による事件の様相を呈してるが、そこには実際に作業する事業者はもちろんだが国や県や市などの自治体にもまるで当事者意識が無いのだ。

 

如何に当事者意識が無いかは次の記事を読めばよく分かる。

 

建設残土の闇 狙われる空き地

開発に伴って必ず生まれる“負の産物”、建設残土。

国が管理に乗り出さない中、大量の土が行き場を求めてさまよう状況が続きます。

 

 

 

この記事は熱海の土石流が発生するより前の2019年のもので、読む限り当事者は現場の被害者だけになるのだ。

 

そして、この話題を見てる世間も非難の声は上げるが当事者意識は希薄で他人事。

 

被害が自分に及んだら慌てて当事者意識を発動するだけ。

 

当事者意識が低い人は選挙に行かないことを政治家はよく知っている。

 

だから、当事者意識が低い人には政治は手を差し伸べない。

 

 

 

もうそろそろ学習できても良い頃なのではと思ってるのはわたしだけかも知れない。