似つかわしくないワードの組み合わせのツイートを見た。
走る哲学者。
悩める「走る哲学者」 山県亮太が暗闇の中で見つけたもの https://t.co/okiSNlpBKC
— 毎日新聞ニュース (@mainichijpnews) 2021年7月30日
為末大さんの「逃げる自由」再読了。「頑張る必要のない場所で頑張ってませんか?」「自分に合わないやり方で頑張ってませんか?」何度読んでも、気づきのある1冊です。さすが「走る哲学者」の異名を持つ為末さん。#読了 ##読書 #読書好きな人と繋がりたい pic.twitter.com/FH5jbUHhv9
— めぐみ読書垢 (@PfZd4o8yhZXmCN8) 2021年7月24日
無心で走ってるようでも実際には無心ではない、無心ではないから哲学が芽生えるのか、それとも無心でも哲学は芽生えるのか。
現実社会で接点を持つ人々を観察してると気付ける。
考えてる人は考えてる人なりに持つのが哲学。
おもしろいことに、考えない人も考えない人なりに持つのが哲学。
具体的な内容に目を向けるなら意味することは全く違うかもしれないが、その人なりの人生観が反映されるのが哲学で人生観と言っても良いだろう。
政治に全く興味のない人でもその発言や行動は政治と無関係ではないことと、哲学や人生観はよく似ている、興味や関心があろうとなかろうと持ってしまうものなのだ。
哲学や人生観は考えだけで出来上がるものではなく、体験や経験の方がはるかに大きく影響する。
匿名や裏アカウントで発せられることばとも密接に関係する。
本音を晒すにはTPOが問われるのは、体験や経験から得た知恵の反映だ。
哲学や人生観だと思っていると、世の中を貫く絶対真理のように思いがちだが、実際のところは単なるポジショントークに過ぎない。
世の中の哲学とは、ポジショントークのパワハラ合戦に思えてくる。
世の中の見え方は人の数だけあるのだ。