日本人の過半数が開催を望まないと言われていた東京オリンピックももう後半戦に入っている。
当初の東京オリンピックは政治的な存在として嫌がられていたような気がするが、開催が差し迫ると参加するアスリートにも攻撃の矛先が向き始めた。
「クズ」「インチキ野郎」「日本から出ていけ」 “誹謗中傷”をぶつけられたアスリートへ「気にしないようにすればいい」という無責任さ
選手への誹謗中傷が増えたのはSNSのせいだという意見もあるようだ。
ときに「選手がSNSを使わなければいい」という意見を聞く。だがそれは誹謗中傷への対処として正しいとは言えないだろう。選手たちにも、他のアスリートとのやりとりや情報収集、ファンとの交流、意思や活動の発信と、それぞれにSNSを使用する目的がある。
しかし、露出の度合いに違いはあれどもSNSなどなかった時代でも誹謗中傷はあったようなのだが、露出の度合いの違いが大きいので現代ではより丸見えになっているのだ。
SNSの果たす役割について考えていて、ふと思ったことがある。
ファンからするとSNSで直接推しの意見や考え方が知れることはとても嬉しいし、直接のコミュニケーションすら可能になることは喜びだろう。
そんな一方で、ファンや推しからすると歓迎される発言は、それ以外の人にとっては必ずしも歓迎されるものではなく、時には部分を切り取って揚げ足取られたり、ちょっとした伝わり方の違いで攻撃の対象になったりする。
良くも悪くも、攻撃される場合はその存在感が具体的になるのだ。
アイドルを偶像と呼ぶように、好きになったり憧れたりする存在は具体性が欠けても成立するような気がするが、嫌いになったり憎んだりする対象は具体的な存在じゃないと成立しないように感じる。
物語などで架空の存在であっても、憎しみの対象になるためには具体的なエピソードや言動が添えられなければ憎しみのシーンは成立しない。
好きになったり憧れたりは、なんとなくでも成立しそうだが、嫌いや憎しみは具体性がなければ成立しないとするならば、有名人や目立つ人に攻撃の矛先が向かうのはある種の宿命なのかもしれない。
具体的であることが厄介なのは、三次元の存在として認識されると、顔や目鼻立ちや体型ですらその中に含まれてしまうのだが、賢明な人はそのことを隠して別のことにすり替えて攻撃するはずだ。
有名人は、どこの誰かが世間に知られている。
そんな有名人の発言や行動が話題になれば、ちょっとした切り取り方や切り取られ方の違いで嫌いや憎しみの対象になりやすいのだ。
有名人はきっと想像するより辛いはず。
現在有名人ではないが、そのうち有名人になりたいと思ってる人は覚悟しておく必要があるだろう。
また、有名人になる前のSNS等の発言は匿名にしておくのが賢明だろう。