スマートフォンが登場したのは世間一般では2007年のiPhoneから。
(iPhone以前の一部のものが元祖とする説もあるが)
GoogleTrendsで検索可能な2004年以降で『スマート』の変遷を見ると、
急上昇したのは2011年3月の東日本大震災以降。
震災でガラケーが使えないことが多かったのに対しスマホはSNSが機能しての安否確認が素早く行えたことなどから、乗り換えする人が増えたためだ。
日本人にとっては、20世紀の昭和平成の時代のスマートとは、体型が細身であることを意味することばだった。
しかし、英語のスマート(smart)にはそのような意味はなく、賢い、頭がキレる、というのが本来の意味で、そこから派生する褒め言葉の多くはスマートで代用できるという使われ方をする。
日本人が細身の体型をスマートと呼んだことは、暗に太った人が鈍くてドンくさいという意味でもあっただろう、だとすれば当たらずとも遠からずと言えそうだ。
スマートフォン以前にスマートと名付けられていたものにはスマートエントリーがある。
もっとも世間的にはキーレスエントリーと言った方が通りは良いだろう。
自動車のドアの開閉やエンジンの始動停止にキーを差し込んで使わないという仕組みは90年台の半ば以降普及し始めた。
直接接続しないで、無線や電波で繋がるシステムには当初心許なさがあったが、慣れるのは早かった。
スマートフォン以前のスマートとは、旧い仕組みやシステムが新しくより高機能になる場合に用いられることばだったが、スマートフォン以降のスマートは、そう呼ぶ以外の呼び方がないものが増えてきた。
スマートウオッチやスマートスピーカーなど。
共通してるのは、デジタルなシステムで無線や電波で接続され、親機と子機のような関係で連携が取れることで、電気で動いている。
身の回りにスマートなシステムが溢れることは、人間の二極分化をより加速させるだろう。
本来持ってる自分の内側のスマートな要素を外部委託することで内側のスマートさを失っていく者と、本来持ってない外部のスマートさを巧みに自分の内側に取り込む者への二極化だ。
昔の日本ではスマートではない人は、太ってるということを意味してたが、これからは、愚かな人を意味することばになるだろう、というかもうなっている。
身の回りにスマートなシステムが増えるほどに、スマートさを失う人は増えていく。