違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ディープラーニングの正体

アナログ時代、日本だったら昭和をイメージすると分かりやすいだろう。

 

努力や頑張りや根性が成果を上げるために有効だった、というよりもコネや縁故に頼らない場合にはそれしかなかったと言えるだろう。

 

上を目指そうと思ったら、有能性を身に付ける必要があり、有能性を身に付けようと思ったら理解力を高める必要があった。

 

理解力を高めるためには勉強や修行が必要で、勉強や修行には努力や頑張りや根性が必要だった。

 

おそらく青春期や成長期を昭和で過ごした現在アラフィフ以上が持ってる価値観だ。

 

日本は高齢化社会であるため、社会の中枢部にはこのような価値観は今でも根強く残っている。

 

 

世界でAIが話題になるようになり始めた最初の頃はチェスや囲碁で人間とどちらが強いかなどという興味からの話題だった。

 

やがて自動運転が話題になり、AIスピーカーなど人間とのコミュニケーションも可能になってきた。

 

特に話題になったりするわけではないが、スマホカメラの制御を始め人間の側に熟練を要求することなく難易度の高い制御が生活の身近で実現するようになった。

 

そんなAIの進化の裏には、AIを学習させるためのディープラーニングという方法があり、そのことは世間に広く知られている。

 

AIとディープラーニングの関係が深く知られるようになった頃から、決定的にアナログ時代との違いが明らかになってきた。

 

 

アナログ時代に、人間にとって最も有効だとされた努力や頑張りや根性によって理解力や有能性を高めることは、デジタル時代においてはさほど有効ではないのだと明らかになってきた。

 

ディープラーニングで高度な学習をしたAIは高度な有能性を発揮するが、じゃあ自分がやってることを理解できているかというと理解はしてないのだ。

 

ディープラーニングの研究者やディープラーニングをビジネスにしてる側の人は、ディープラーニングを理解し支配しようと試みるだろうがおそらくそれは上手くいかない。

 

だからAIが暴走して戦争を起こしたり、人間を支配しようとするなどと妄想するのだ。

 

 

あまりにも簡単過ぎる括りかもしれないが、つまり、有能性を発揮するにあたって理解力は必ずしも必要ではなく、そのことは人間の活動にも及んでいるはずなのだ。

 

結果を出して有能だと評価されてる人の中には心の中で『本当のことは自分にも分からない』と思ってる人が少なくないだろう。

 

アナログ時代でも高度な熟練の技を持つ人は、その技を要領よく教えることが苦手で、技は見て盗めなどと言われていた。

 

今にして思うと、熟練者自身が自分でもよく分かってないのだ、ただこうすればできるという確かな実感しかなく、それは説明し難いのだ。

 

これこそがおそらくディープラーニングなのだ。

 

 

つまり、一つのことができたからといって、同じアプローチで全く別のことで再現性があるかと言われたらNoなのだ。

 

 

アナログ時代には、計画や設計やコンセプトというのは重要だったかもしれないが、デジタル時代にはピント外れ。

 

これまた太古から脈々と続く進化の歴史が参考になる。

 

人間の脳を始め、動物や鳥や昆虫その他多数の生き物が進化の過程で身に付けた高度な能力や特殊能力は意図されたり計画的に身に付けたものではなく、気が付いたらできるようになっていただけの設計なき適応に過ぎないのだ、つまりこれまたディープラーニングの一種なのだ。

 

 

デジタル時代に適応しようと思ったら、最初に設計や計画を立てることは回りくどいだけなのだ。

 

やりたいことをやりたいように創意工夫し続けることしかないのだ、人間自身にもディープラーニングが必要なのだ。