次の記事を見て、Windows95の登場で嫌でもPCを覚えなければいけなくなった90年代を思い出した。
こうした学生がPC向けのソフトウェアを扱えないという点だけでなく「ディレクトリ構造を理解できない」という点にあります。PCを扱う場合、階層によってファイル・フォルダを整理するディレクトリ構造を理解しなければソフトウェアを扱うことすらままならないケースがほとんどですが、InstagramやTwitter、Facebook、YouTubeなどの主要なスマートフォンアプリケーションを扱う場合はディレクトリ構造の知識は不要です。
PCを初めて扱う者にはファイルやフォルダという概念はなかなかピンと来なくて、よく言われていたのが『どの引出しに何をしまうか』という例え話だった。
結局よく分からないまま数年経って、『どうしてこんな簡単なことが分からなかったのだろうか』と、気が付いたら分かるようになっていたことに気付いた。
昔はPCは避けて通れなかったが、現代は避けたければ避けられるし、そのことによる不都合は昔に比べたらずいぶん少ないはず。
このことを懐かしく感じていたら、ふと養老孟司先生のことばも思い出した。
人間は概念に価値を感じる生き物で、概念が重視される時疎かにされるのが感覚だ、と。
昔学生の頃、家庭教師や塾の先生をしてて簡単な方程式で躓く子どもを見ていて気付いたらしい。
2X=6
だから、
X=3
これが理解できない子どもは何に躓いているかというと、
X(この場合はエックス、念のため)という文字が、なぜ数字と同じなのか、このことが感覚的に気持ち悪くて、そこから先を受け入れられないらしい、ということに気付いたらしいのだ。
このような反応をする人は、証明問題で結論がA=Bとなるような場合にも強い戸惑いがあるらしいのだ。
AとBは文字として同じじゃないし、もし同じならBは最初からAで良いのではないかと考え、受け入れられなくなるらしいのだ。
人間社会というのは概念(法律やルールも概念)で動くので、概念を理解できなかったり違和感を感じる人には生き辛さがあるのだ。
養老孟司先生のような方が指摘してくれるからなるほどと優しい気持ちで受け入れられるが、身近にいたら優しい態度では接してない可能性が高い。
概念が大事な人間は、ことばの持つ意味でコミュニケーションを取る。
同じことを言えば誰が言っても意味は同じになるし、ならなければコミュニケーションが取れなくなる。
しかし、同じことばを使っても、一人ひとりの声は違う。
一人ひとりの声が全く違うことを敏感に感じ取れる人にとっては、感覚的には同じことを言ってるとは思えなくなるのだ。
それが正真正銘の絶対音感の持ち主。
世間で使われる絶対音感とは音楽的なセンスとして使われるので、日常のコミュニケーションには障害はないが、正真正銘の絶対音感の持ち主にとっては人間社会はとても生き辛いはず。
逆に、人間以外の動物は基本的には絶対音感の持ち主だから、音や声への反応は概念や意味に対して反応するわけではなく、個別に自分なりの感覚的な反応をしてるだけなのだ。
養老孟司先生は、概念が苦手な人は芸術の世界に活路を見出すことが多いと言っていたが、最近アートが注目されるのは多様性やダイバーシティという観点で取り上げられることが多いが、もしかすると人間が概念一辺倒から感覚も重視するようになってきたを意味してるのかもしれない。
概念と感覚は、前者が抽象を意味し後者が具体であるように対立関係なのだが、その関係性が変化してるのだとすれば意識しておきたい。
自分では水平思考のつもりだが成立してるだろうか?