事前の下馬評では今回の衆院選の投票率は上がることが期待されていたが、またしてもだった。
もはや、投票率と選挙の争点にはあまり関係がなく、もっと別の理由があるのではと思えてくる。
もちろんよく言われるところの『自分の一票で世の中が変わるとは思えない』や『政治に興味なく、よく分からない』という理由は便宜的に使われるだけで、もっと別の“空気”に関係する理由があると思いたくなる。
そう思ってると、流れてきたツイートが心に引っ掛かった。
日本の経済統計と転換点
— 小川製作所 (@OgawaSeisakusho) 2021年10月31日
「寛容な日本人を取り戻そう!」
World Giving Indexによる、日本の順位(139か国中)
寛容さ: 111位
親切さ: 135位
寛容さ111位も驚きですが、親切さが135位って、、
日本人は世界最低水準の「不親切な人たち」と見做されているようです。https://t.co/kw5k9atUVy
このツイートやそれに続くリプ及びリンクを読んで思い出したのがことわざの『衣食足りて礼節を知る』や割れ窓理論だった。
ニューヨーク市は1980年代からアメリカ有数の犯罪多発都市となっていたが、1994年に検事出身のルドルフ・ジュリアーニが治安回復を公約に市長に当選すると「家族連れにも安心な街にする」と宣言し、ケリングを顧問としてこの理論を応用しての治安対策に乗り出した。
彼の政策は「ゼロ・トレランス(不寛容)」政策と名付けられている。具体的には、警察に予算を重点配分し、警察職員を5,000人増員して街頭パトロールを強化した他、
- 落書き、未成年者の喫煙、無賃乗車、万引き、花火、爆竹、騒音、違法駐車など軽犯罪の徹底的な取り締まり
- ジェイウォーク(歩行者の交通違反)やタクシーの交通違反、飲酒運転の厳罰化
- 路上屋台、ポルノショップの締め出し
- ホームレスを路上から排除し、保護施設に強制収容して労働を強制する
などの施策を行った。
興味深いのは、良い意味での寛容さを取り戻すために取った政策がゼロ・トレランス(不寛容)であったことだ。
一見、寛容さを示すかのようなことばに、キリスト教の『右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ』がある。
リンク先にはこう書いてある。
「でも、ここからが本題ですよ。右頬を裏拳で殴られた相手が、イエスの教え通りに左頬を差し出したとします。でも、裏拳では無理ですよね? 今度はキレイな手のひらで殴らざるを得ない。そこで主人が、右の手のひらで奴隷を殴ったとしましょう。するとそれは、今までの関係が変わった、ということを意味するのです。『主人と奴隷』の関係から、『対等』になってしまうのです。この事実は、殴る主人の側にとって大変屈辱的なことなのです。実は、ここに真意があるんです」
真意は別にあるのだが、ことばだけが独り歩きすると、権力者はそれを都合良く使おうとする。
割れ窓理論では人間の心理は、一枚割れてるガラスがあるだけで、一箇所汚れてるだけで、他のガラスが割れてても構わないし、周りが汚れても構わない、となるという前提で対処してるのだ。
組織や集団における人間関係の崩壊は、一人の『自分さえ良ければ構わない』という意識から始まると言われる。
日本という括りで見ると没落国家のように扱われるが、日本人一人ひとりに目を向けると、『別に関係ないよ』という人が思ってる以上に多いのだろう。
こう思う人が、恵まれた環境にいるとは限らないのだが、そんな人々を権力者が利用しようとするのが今の日本なのだと思うと、投票率が上がらないことも納得できるような気がする。
低投票率は、日本政治が展開する貧困ビジネスの結果なのだ。