印象的なことばを載せてる記事を紹介するツイートが流れていた。
朝から痺れるぜ pic.twitter.com/oHfK1tO7D8
— 早川博通 (@hakutsu) 2021年10月30日
このことばに激しく同意するとともに、この意味を自分に都合良く解釈したいと思った。
成果を上げなければいけない仕事や、出世を望む気持ちにとっては、他人から評価されることはとても大事だし、日本ではそれがすべてと言ってよいくらいだ。
そのために身につく習性が、自分がやりたいことや好きなことの反対側に、評価されることを置いてしまうということだ。
したくないけどやらなければいけないことが、仕事や勉強や意に沿わない人付き合いだとなりがちだ。
この習性が染み付くと、やりたいことや好きなこととは、評価されないことと同然だという刷り込みができてしまいがちになる。
犯罪や反社会的な行動は論外として、評価されないことは悪いことであり、やりたいことや好きなことはいつしか悪者扱いされるようになる。
現代では表立ってそんなこと無理やり押し付けられることは減っただろうが、日本で生まれ育つと深層心理に棲みつく無自覚な潜在意識になりそうだ。
もう少し具体的に言うと、全ての問いには答えがあり、その模範解答を知りたいと望むのだ。
わたしが都合良く解釈したいのは、模範解答を求めることではなく、自分流の答えや、自分だけにしか通用しないかもしれないがそれで十分満足できるものを、見つけられる方がきっと幸せなはずだということだ。
人間は他人には嘘をつけるが、自分には嘘はつけない、本来は。
しかし、自分に嘘をつきながら生きてる人は意外と多く、そういう人の多くはきっと他人からの評価を求め続けているはずだ。
自分に嘘をつかないことが、他人からの評価を求めないことと繋がるためには自己満足という評価軸はとても重要になる。
自己満足がネガティブに解釈される場合は、独り善がりだと捉えられる場合。
それを除くと、自己満足には自己肯定感の強さがあり、そのことが新たな目標や課題の自己発見につながるので、よい意味での循環が起き始める。
この際に、他人からの評価などを中途半端に介入させると循環をぶち壊してしまう。
自己満足は生きること全般に役に立つはずだが、まずは純粋に自分ごとの趣味の領域でこそ追求すると良いだろう。
模範解答を求めず、自分流の答えを楽しむ、それが自己満足の始まりだ。
思ってるよりも遥かに試行錯誤が多いが、楽しめることだけは間違いない。