指摘されると容易に気付けるが、指摘されなければなかなか気付きにくい、ということは世の中には多い。
キレさせないためのマニュアルがあるという事は、その逆をやればキレさせる事が可能な訳で、こんな文章が存在する時点で国際的な交渉事には不向きな輩です。相手に情報は筒抜けでしょうから、いい様にコントロールされて終りです。残念な事に外相でしたが。 https://t.co/Ot1a9G6i9o
— 立川雲水 (@tatekawaunsui) 2021年11月12日
何事も無難にそつなくこなせる人には大きく二種類いるのだ。
臨機応変さのレベルが高い人とマニュアル対応の人。
この二つは究極的には同じなのかもしれないが、相手がいる場合には印象が変わってくる。
相手は人間とは限らないし生き物ですらない場合もある。
官房長官時代の菅さんだったら通用したマニュアル喋りは、首相になったら通用しなかった。
非を認めず、論点をずらし、対話を遮断する「菅語」が子どもたちの間で広まったら――。「尾木ママ」こと教育評論家の尾木直樹さんは怒りを込めて問う。「菅さん、同じことを子どもたちの目の前でもできますか」https://t.co/HEiql5IMG3
— 毎日新聞 (@mainichi) 2020年12月15日
マニュアル化、効率化、合理化、これらは表現こそ違えど同じだ。
将棋の藤井聡太さんの強さの秘密は、これらとは違う師弟関係にあると指摘する話がある。
藤井聡太も逃れられない、将棋界が「師弟関係」を守り続ける意義
将来的に、コンピューターとの対局で勝てる人間の棋士はいなくなると見られている。しかし、将棋とは人間同士の勝負であり、ぎりぎりの局面では、精神力や体力、駆け引き、勝利への執念といった極めて人間的な力が勝負の分かれ目となるのである。その力をいかに養うか。そこにこそ「師弟関係」の意義が見いだせるのではないか。
現代では効率や合理性がなによりも優先される、そういう意味では師弟関係は部が悪いとされる。
多くの場合、師の根性論や精神論の押し付けとして語られるからだし、師の教えは師弟関係が弱ければそう見えがちになる。
しかし、良き師弟関係の弟の立場から良き師弟関係が語られることはほとんどない。
良き師弟関係の中には高度なマニュアルがあるようには感じにくい、それよりも最後は軸となるシンプルな考え方だけに行き着くような気がする。
養老孟司先生は、人間の合理性を『人間は省略する生き物』と表現する。
そして、その省略したものの中にこそ、省略してはいけないものがあることが多いとも言う。
別の言い方をすると、師弟関係とは受け継ぐ関係と言っても良さそうで、手っ取り早くイノベーションや革新を目論む時に最も蔑ろにされるものでもある。
良し悪しは別にして、マニュアル化の反対語が師弟関係に思えてくる。