違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ひやかしはコロナで変化したか?

行列ができる店というと飲食店を連想する。

 

わたしは、飲食に関する限りは、行列に並んでまで食べたいものはないと思ってしまう、しかし行列ができる店では『こんな店来るんじゃなかった』という大きな失敗は起きにくいような気がする。

 

つまり、そういう意味では安心感が得られるだろう。

 

 

拡大解釈すると、客が大勢いる店には安心感があるような気になってくる、たとえお客の中にはひやかしが多かったとしてもだ。

 

ここで区別しておきたいのはひやかしさくらの違い。

 

ひやかしは、今は買うつもりはないけど商品を見たい人であったり、いずれは買いたいと思いながら商品を見る人で、お客予備軍であり見込み客でもある、もちろん単なる暇つぶしも多いがこれだって情報収集と見做せばお客予備軍となる。

 

一方、さくらは、お店に雇われてあるいは頼まれて、お店が賑わってるように演出するためのエキストラのようなもので、お客になることはあってもちょっと種類が違う。

 

さくらは一般的には新規開店やイベントの時に動員されるので、その店が近所にあったり、通り道にある人だといつもとの違いをすぐに感じるだろうが、たまたま通りかかった人は人気があるお店なんだなと勘違いさせる効果はあるはず。

 

 

繁盛店の条件に、いつもお客が多い、かつひやかしでも入りやすいというのがある。

 

というか、あったと言うべきかもしれない。

 

いつの頃からか、万引き防止や効率の良い集客のために、ひやかし客を嫌がるような店舗運営をする店が増えたように感じる。

 

俗にいう敷居が高い店で、専門店が多い。

 

自店の領域を限定し、そこに合致しない人は客ではないとする定義は、似非コンサルが好んで論を展開しそうであると同時に、耳心地の良い話になりそうだ、ブランド戦略などと称して。

 

 

店舗運営上ひやかし客をシャットアウトできない形態のモールやスーパー、量販店、コンビニなどが、敷居が低い店としてひやかし客が集まりやすくなる。

 

おもしろいことに、これらの店はコロナ禍でも伸びているのだ。

 

コロナ禍で密を避けるための人数制限やソーシャルディスタンスなど、ひやかし行動には急ブレーキが掛かったことだろうが、ひやかし行動を許容しやすい場は活性化していたのだ。

 

 

専門性の高さは量販店の場合、規模の大きさでカバーできるかもしれないし、結果として敷居の低さが新たなニーズや需要の掘り起こしに貢献したかもしれない。

 

お客は本音を言わないと言われる。

 

本音を含めて会話の一言一言が交渉になるからだ。

 

交渉ごとは誰でも有利に進めたいと考える。

 

本音を最初に全部曝け出すという交渉術がある、主に金持ちが自分が太客であることを認識させ、相手の最大限を引き出させようとするような場合だが、件数的にはマイナーなはず。

 

ほとんどのケースで、金額が高くなればなるほど、売る側も買う側もコスパの最大化を図るので、お互いに手の内を小出しにしながら交渉したくなる。

 

その交渉にかかる時間を嫌がる時に、売る側はひやかしだと感じるのだ。

 

売る側のそんな心理はすぐにお客にも伝わる、そんな時は『この人から買うのは嫌だな』と感じるし、説得納得させようとしながら論破しようとするような態度で接されると、やっぱり『この人は嫌だな』と感じさせ、『ひやかし客のふりをしよう』とさせてしまうだろう。

 

 

お互いに当てが外れた思いを味わいながらも、実は両思いだということが興味深い。

 

 

二年に渡ってコロナを経験したことで、人々の意識や行動には無自覚な変化が起きていてもおかしくない。

 

きっと、ひやかし行動も変化してるのだろう。

 

コロナ禍で増えた路上飲み、これもひやかし行動の一種に思えてしょうがない。

 

 

と書いたところで次のような記事が目についた、アメリカのZ世代(中学生〜大学生くらい)はひやかしなんて縁がなさそうだ。

 

アメリカZ世代はスーパーの売り場に行かない、レシピ動画で即購入

 

ひやかしは、大人の嗜みだ。

 

テスラもひやかしは大歓迎らしい。