朝テレビを見てると『神田沙也加さん死亡』というテロップが出た。
知ってる神田沙也加さんは一人しか浮かばないが、まだまだ死とは縁がなさそうだしと思いながら検索すると、やはりあの神田沙也加さんで、自殺の疑いがあるとか、死の直前に父親の神田正輝さんに誕生日の祝いの電話をかけていたなどとの話も出てくる。
父親も母親もトップクラスの有名芸能人という環境で生まれ育ったことは、生まれながらに決して消えることがない大きな財産を持ってるようなものだと、多くの人に思われていただろう。
この訃報に接する少し前に、“一生ものの腕時計”と銘打たれたタイトルを目にして、腕時計にまるで興味がないわたしには“一生もの”という響きが腕時計に対して使うには虚しいものに感じられていた。
親子関係はどんな関係であろうと、その手続きがどんなものであろうと親子としての実態や生活があれば、良し悪しに関係なく一生ものだが、それを出自という言い方で捉えると触れてはいけないような雰囲気が出てくる。
ゲスな言い方になるが、財産や資産になる出自と負債でしかない出自が世間にはある。
そして、これもどちらであろうとも一生もの。
第三者の目には、神田沙也加さんは出自に関しては大きな財産を持っていたはずで、その分だけ守られる存在だと思われていたはず。
病気の噂もないし、だからこそ世間は大きく驚いたはず。
一生ものには、大きく二つの解釈があるように感じられる。
一つは、一生ついてまわるもの。
もう一つは、一生使えるもの。
誰でも、何かしらの一生ものを持っているはず、それをどう感じているかは別にして、もしかしたら持っていることに気付きさえしてないかもしれないが。
時々、死ぬには若すぎる芸能人の訃報に接するが、その両親のこともよく知ってるというケースはそうそう無い。
神田沙也加さんの訃報に接して、出自を含めての“一生もの”とはと考えていた。
生きてる人は誰でも、自分だけの“一生もの”の影響を受けながら生きてることだけは間違いない。